東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書2章25-29節「文字ではなく御霊による」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/11/29

ローマ書2章25-29節「文字ではなく御霊による」

 *** 11/29(水)祈祷会 説教概略 ***

 「下剋上球児」という高校野球の監督を主人公としたドラマがあります。主人公は実は無免許で高校教師をしており、彼はそのことを心から悔いて教員をやめ、警察に出頭します。周囲の人々は彼を厳しく非難しました。他の先生たちも同様です。ただ、生徒たちは彼をとても慕っていました。



 本気で向き合い、本気で励まし、本気で指導してくれる先生だったからです。ですから生徒たちは、この主人公のために署名を集めました。ドラマ中、他の多くの教師が教員免許を持っていながらも、生徒と十分に向き合わず、面倒なことから逃げている姿がありました。

 こうした点から、「免許さえあれば本物の教師なのか?」「本当の教師とは一体どういう人なのか?」と問いかけるドラマに思いました。

 もちろん、教員免許は取らなければならないものです。しかし、免許が、本当の意味で良い教師の資格になり得るのかと言えば、そうではないでしょう

 牧師も同様で、神学校を卒業していることや、牧会免許を持っているから良い牧師になるわけではないのです。 そして、私たちの信仰も同様です。クリスチャンホームに生まれたから、長く教会生活を送ったから、洗礼を受けているから・・・。それが今のあなたと神様との親密な交わりがあることの保証になるでしょうか。大切なのは今、今日この時に、主なる神様との親しい生きた交わりの中に歩んでいるかどうかでしょう。

 

1.みことばに生きることのない割礼は無価値

 本日のみことばにおいても、同じように外面的な資格ではなく、内なる姿勢が問われています。当時のユダヤ人たちには、誇りとするものがありました。その一つが「割礼」でした。それは生後間もない男児の性器に包皮の一部を切除するもので、現在でもユダヤ教徒や衛生的な見地から行う人々が多くいます。

 それは、この者が「神の民」であるという一つのしるしでした。現代において「洗礼を受けていますか?」という問いが、クリスチャンかどうかを公に知る手段として一般に用いることと似ています。

この手紙が書かれた時代、ユダヤ人たちは割礼を受けているかどうかを、神の民かどうかを区別する条件のように見ていました。ただし、これはとても人間的な発想で、神様が望んでおられるものではなかったのです。パウロは、このように外面的なことばかりに気を取られている当時のユダヤ人の問題を取り扱っているのです。

なぜなら、実際のところ、割礼を受けていても、その歩みは神様のみおしえから遠く離れている者たちが多くいたからです。そこでパウロはこのように厳しく指摘します。

25節です。
25 もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。 

 おそらくローマの教会のユダヤ人向けの書き方をしていると思われます。律法をしっかりと守り行っているのなら、その割礼には価値があるのです。パウロは割礼も神がくださったものであり、割礼を感謝しながら主に従うのならば、それらは有益であると認めているのです。しかし、割礼自体が人を救うものではありませんし、自分を誇る機会としてはならないのです。ここでは、みことばに生きていないなら、その割礼はただのお飾りとなり、割礼を無価値にしてしまうことだと教えられています。

 私たちも同様で、例えば「自分は随分前に盛大な洗礼式を行った!教会員の籍もある立派な会員だ!」と自慢しても、今現在、主のことばに従って生きる姿勢がないのなら、その洗礼も会員籍も、ただの飾りになってしまわないでしょうか。洗礼自体が私たちをきよくするのではないからです。

 

2.信仰の本質

しかし、イエス様に心から従う人にとっては、洗礼を受けたという事実は大きな励ましであり、信者に対しても、あるいは未信者に対しても良き証しとなることでしょう。しかし、中身のない洗礼は価値が失われてしまうのです。逆に言えば、未受洗であっても、まだ教会員でなかったとしても、心から主を信じて、みことばに生きている方があるなら、その方は立派なキリスト者であると言えないでしょうか。

パウロはこのような発想で、ユダヤ人たちに自分たちの信仰のあり方を本気で考えてもらいたいと思っていたのでしょう。26節にこうありますね。 

26 ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。 

信仰の本質をついたことばです。残念ながら、形ばかりの信仰者が世界には多くいます。もしかしたら、私たちもかつてはそういう時代を歩んだかも知れません。しかし、そこから脱却して、心に割礼を受けている者として歩みたいのです。そして、パウロは27節のように語ることで、割礼の有無やユダヤ人かどうかという人間的なこだわりからの解放を促そうとしています。 

27 からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。 

割礼を受けていないけれども、みことばに熱心に歩む人の姿を見て、「自分は割礼があるのになんて不信仰なのだろう」と思わされる。実にそういう経験によって、自身の信仰を問われて欲しいのです。

割礼や人種、血筋が、その人を神の民とするものではありません。むしろ、誰であっても、イエス・キリストの御名を信じて、受け入れる者が神の子どもなのですから。神のみこころを行う者こそが、本当の意味で名実ともに神の子なのですから。

 二女が高校も大学もミッション系の学校に行き、またそこでの出会いを通して、多くの同世代のクリスチャンたちと出会えたことは大きな恵みでした。彼女は自分と同世代の子たちが、熱い信仰を持って歩んでいる姿に刺激を受けました。長く教会に行っているかどうか、牧師家庭かどうか、そんなことは関係ない。今、主イエス様を愛して、宣教の思いを持つ同世代の信仰者にを見て自身の姿を問われたのです。

 どれだけ長く教会生活をしているか、親戚一同クリスチャンかどうか、そんなことは重要ではありません。過去の栄光も、キリスト信仰においては重要ではありません。ユダヤ人たちは過去の栄光ばかりを誇っていましたが・・・。選ばれたこと、血筋、かつての国の繁栄、割礼を受けていること、律法を学んだことなど。しかし、それらをどんなに多く持っていようと、今、現在、この瞬間にイエス・キリストとの親密な交わりがないのなら、それらは果たして何の役に立っているのでしょうか。

 いや、ともすると、そうした過去の栄光が、新しくみことばを学ぶ情熱や主を愛する姿勢をかえって妨げていることさえあるかも知れません。もし、そうならば、むしろそれらを捨ててしまった方が良いくらいです。何も持たない幼子(おさなご)のようになって、主を求める姿勢をむしろ大事にしたいのです。

 

28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

 「外見上」そう見える要素を備えている人が、神に喜ばれる人ではありません。ここにあるように、外見上立派な人は、人からの称賛が届きます。しかし、その人の心の中に確かに息づき、燃えている信仰へは、神からの称賛が届くでしょう。私たちは表面的な文字に仕える者ではなく、御霊によって見えない神に仕える者とされているのです。文字ではなく、御霊によるいのちある心の割礼こそ、真の割礼でしょう。

私たちも今日、ご一緒にじっくりと考えてみたいと思います。

クリスチャンとは何者なのでしょうか。神の前に喜ばれるキリスト者とは、どういう人なのでしょうか。どれだけの功績を残したか、どれだけ長く信仰生活をしたのか、そういうことよりも大切なことがあります。私は絶えず「今」が問われていると思います。

 今、イエス・キリストと一つとなって歩んでいるのかどうか。主の声に聞いて、その人の中にキリストが透けて見えるような歩みを喜んでしているのかどうか。その日、その日を御霊に導かれ、キリストにあってイキイキと歩んで参りましょう。

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