東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ3章19~24節「心安らかな人生」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/11/13

第一ヨハネ3章19~24節「心安らかな人生」

 *** 11/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ3章19~24節「心安らかな人生」


 おそらく世界中の誰もが「心安らかな人生」を求めていることと思います。平安に満ち、恐れに支配されず、希望や喜びを抱いて生きていきたいのです。では、「心安らかな人生」は、どのようにして得られるのでしょうか。


 私たちは何も問題がない平穏な環境が、私たちを心安らかにしてくれると考えがちです。良い環境が与えられ、平和で十分な富があって、問題がない生活になれば、「心安らかになれる」と考えるのです。ただ、それは非現実的な発想ですよね。

 もし、私たちもそう考えているのなら、私たちの祈りはこのようなものになるでしょう。「神様、どうか、私の周囲がいい人ばかりになりますように。私を怒らせず、私を悲しませず、私のやりたいことを邪魔しない愛しやすい人で満たしてください」と。

 この祈りに主は応えられるでしょうか。
 
 みこころではないので、応えられないことでしょう。

「私の都合の良い環境にしてください」との祈りは愛から出ていませんから、応えられるものではないでしょう

 しかし、「どのような場であろうと、人々を愛していきます!力をお与えください!」との祈りは、応えられていくでしょう。主は隣人を愛しなさい、あなたの敵をも愛しなさいと教えておられるからです。そして、愛するならば、そのために必要なあらゆる助けをくださいます。また、愛するゆえの恵みと祝福が与えられると主は言われるのです。それが、主がくださる心安らかな人生です

 神のみこころを行うことは無理だ!とあきらめて逃げた先には、平安も祝福もありません。そうではなく、神の愛に生きるならば、そこに主がおられ、恵みと祝福が満ちているのです。みことばに教えられて参りましょう。

 1.行いと真実をもって愛することが、心に安らぎを得る道

19節にこうあります。
19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。 

 心安らか(保証、確信をも意味することば)の部分は、直訳的には、私たちの心を安心させるとも訳せます。確かで揺るぎない安心の状態にさせるということです。では、「そうすることによって」とは、どうすることでしょうか。直前の18節で「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」とありました。これが「そうすること」です。

 23節でも、愛し合うことが神の命令であると繰り返し確認されています。行いと真実をもって、キリストのように愛すること。これが神の大切なご命令です。

 ここにとどまる時、私たちは真理に属していると確信できます。そして、神の御前にあって心安らかにいられるのです。それは受身的ではなく、能動的ですよね。環境さえ良くなればという発想、周囲の人が優しくしてくれるならばといった発想ではありません。それらは、叶うことなき幻想にすぎないでしょう。

 しかし、みことばは、あなたがキリストの愛に生きるなら、神の平安がそこにあるのだと語るのです。この世の考える安らかな人生とは、まるで違うことに気づきます。

2.私たちの心が、私自身を責める時

 ただ、愛することは時に非常に難しく、犠牲も必要なものです。自分の愛のなさに愕然とすることもあります。20節にこうありますよね。20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。 

少しわかりにくいですが、「たとえ私たちの良心が、私たちを責めてしまう時でも」と言い換えればわかるでしょうか。私たちの良心が、自分を責めること。よくありますよね悪いことをすると誰も自分を責めていなくても、胸が痛みます自責の念、罪悪感です。

しかも、私たちは神と人を愛そうとするとき、必ずと言って良いほど、「愛せない自分」「自己中心の自分」をも発見することになるのではないでしょうか。しかし、ヨハネは言います。たとえ、このように私たちの良心が自分を責めてしまう時でさえも、私たちが精一杯主のご愛に生きているのならば、平安はあるから、何も心配する必要がないと。

どうでしょう?
自分の心が自分を責めていたら、安らぎなんてないと思いませんか?
普通はそう考えます。

しかし、20節後半にこうありますね。「神は私たちの心よりも大きな方」だと。私たちの心は不完全な小さなもの。しかし、その心を造られた方は偉大で、この心より完全に正しく愛に満ちたお心をお持ちなのです。主の心が私たちを赦し、慰め、大丈夫だと示してくれるなら、私たちは自分の心に支配される必要がないのです。自分を責めてしまう私たちの心よりも、神は偉大で寛大で正しいお方だからです。私たちの心よりもあわれみが深く、私たちの心よりも健全な心でいらっしゃる。

私たちが自分を赦せなかろうが関係ない。より偉大な主が、十字架によって、あなたを赦しておられるのです。問われていることは、あなたの心に聴くのか?それとも全知全能の神のお心に聴くのかということです。どちらに聴くべきでしょうか?

もちろん、より正しく完全な主のお心に聴くのがふさわしいのです。

つまり、平安とは、私たちの心が自分を責めているかどうかには左右されないもの。ただ神の愛の中で与えられるものなのです。この心を造り、この心より偉大な神の愛の中にとどまる時、私たちのちっぽけな心の判断によらず、神様によって平安をいただけるのです。これが神の救いの力です。私たちの思いを超えた平安をもたらす主のみわざです!

ピリピ4:6-7 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 

 ここでも、思い煩いを主にゆだねる交わりに生きるなら、人間のすべての考え、すべての理解を超えた神の平安が与えられると教えられています。人間の小さな考えでは、私の心が自分を責めているなら安心できないと思い込んでしまいます。しかし、そのような時でさえ、主の声に聞き、主の愛に生きる時、人の考えや理解を超えた神の平安に満たされるのです。不思議なみわざですよね。


3.主が知っておられるという安心 

そして、今日の20節にあるように、主はすべてをご存じです。主は私たちが不十分、不完全であることも、私たち以上によく知っておられます。逆に、私たちがダメだと思っていることでも、「十分によくやっているよ」と見ていてくださる方でもあります。誰からもほめられないことでも、決して主は見落としたりしません。教会に落ちているゴミ一つ拾う行為でさえ、主は私の家であなたはゴミを拾ってくれたねと覚えていてくださいます。

イエス様の弟子ペテロがイエス様との関係を3度否定してしまった後、復活のイエス様と語り合いました。その時の彼は「愛します!」とは断言できませんでした。そうではなく、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えるのが精一杯でした。それは愛のない自分、裏切ってしまう自分を知ったからです。けれども、彼は、自分の愛をイエス様が知っていてくださるとの確信がありました。ゆえに自己弁護もせず、自分で断罪もせず、すべてご存じの主にゆだねたのです。私たちはこれで良いのではないでしょうか。神様が私たちの精一杯を知っていてくださるのです。

だから、必死に弁解する必要もなく、自己主張することも不要です。

そして、この主を知る時に、自分を責めることからも解放されるのです。こうして、罪悪感から自由とされて、主の愛にまっすぐに歩める時もあるでしょう。それは、21-22節にある通りです。

21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。 

心が責められる時でさえ、主にあって安らかに歩めるのなら、責めを感じずに主に従えている時はなおのこと平安のうちに、確信を持って力強く歩めますよね。「確信」と訳されたことばの基本的意味は「大胆さ」です。心に責めがなければなおのこと、大胆に確信を持って主のわざに励めるようになるでしょう。嬉しい事です!

さらには、その場合、求めるものを何でも神様からいただけるとも続きます。神様のみこころがなるようにと願い、そのために労する時、主が必要なものをくださるということです。

 なんと幸いな人生でしょうか。

 私たちが不十分だと自分を責める時でさえ、主は心を安らかにしてくださる!
 一方で、私たちなりに愛せていると胸を張れる時には、より大胆に確信を持って神に祈り求めていくことができる!

 つまり、いずれにせよ、神の深い平安の中に歩めるのです。むしろ、私たちができていないと思える時でさえ、主は慰め励まし、「あなたはよくやっている」との気づきもくださるでしょう。

 私は夫として父として、またこの教会の牧師として様々な決断をしてきました。思い返すと、「果たしてあの決断で良かったのだろうか」と胸を痛めることがあります。

 申し訳ないな、余計な重荷を負わせたかなと心配にもなります。やるべきだったのか、やらない方が良かったのか。止めるべきだったのか、背中を押すべきだったのか。正直、相手を思いながら決断しているつもりでも、あれは自分勝手な思いだったのではないか。主への祈りが足りなかったのではないかと、自分を責めていることがあります。未だに迷いの中にあることも少なからずあります。責任を感じることがあります。

それでも・・・いや、だからこそ、主がおられることが本当に感謝なのです。24節にあるように、主のうちに私たちがいて、主が私たちのうちにおられる。だから、何があっても大丈夫です。

たとえ私の決断が間違いであろうとも、失敗であろうとも、主なる神様が助けてくださるならば、間違いや失敗さえ、良き物に変えられるからです。人のした悪意でさえ、神の「良き計らい」にさえされていくのですから、なんて安心なことでしょうか。不十分な時でも、自分なりに主の愛で愛せた!と思える時でも、主とともにあれば平安があるのです。

 

 ご一緒に語られて参りました。

 心安らかな人生は、環境の奴隷であるうちは、決してもたらされません。そうではなく、どのような環境にあろうとも、主の愛に生きる道を選んでいれば与えられるのです。自分の望む環境が私たちの心を安らかにするのではなく、主との愛の交わりにあるならば、どんな境遇でも満たされ、心安らかなのです。環境の奴隷とならず、自分を責めてしまう状況でさえ、主の愛に歩み、平安をいただいて参りましょう。それがまた、この世に対して良き証ともなるのです。

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