東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書5章1-7節「ただ、神を恐れよ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/11/20

伝道者の書5章1-7節「ただ、神を恐れよ」

*** 11/20(日)主日礼拝 説教概略 ***
 植物を育てる際に、葉や枝が多すぎると害虫が発生しやすくなるなどして、かえって成長を阻害してしまいます。そこで「剪定(せんてい)」という作業をします。「剪定」というのは、無駄な葉や枝を刈り取り、バランスを整えることです。それによって、植物の見栄えも良くりますが、害虫からも守られ、より良い成長を促すことができるということです。



 私は、植物(ガーデニング)のことは全然詳しくないのですが、説教準備でも「剪定作業」は大事だなと常々感じています。原稿の準備をしていると、色々調べたことを盛り込んでしまい、非常に分量が多くなりがちです。ただ、そこからできるだけ必要最低限の中身になるように、無駄な部分をそぎ落とし、さらにことばを練って整えていく作業をします。そうすることで、できるだけ大切で重要なことばで構成されるようにするのです。この作業に半日、長い時は丸1日かかります(あくまで私の場合ですが)。

 神を恐れて歩む信仰者は、普段の生活において、ことばや行いの「剪定」をしていく者たちなのではないかと思います。すべきこと、すべきでないこと、あるいはしないでも良いことを主の前に問われ、取り除いていきます。特にことばはそうです。神を恐れる者ほど、いつでも神の前であることを心に留めていますから、ことばにおいて、良いものを選び続けていける恵みがあるのです。神様も、求める者にはふんだんに良いものを与えてくださいます。今日は、「ただ、神を恐れよ」というテーマで教えられて参ります。

 

1節 神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。

 「神の宮に行くときは、自分の足に気をつけよ」とあります。それは、どういうことでしょうか。神の宮に向かう道のりにおいて、道を踏み外したり、つまずいたりしないようにということでしょう。それは神の宮での礼拝以前。礼拝への備えの段階です。私たちと神様との交わりは、教会にいる時だけではないですよね。礼拝堂で着席している時だけではないのです。教会に行く準備をしている時、いや、礼拝に向かって過ごす毎日の生活においても、神様の御前です。いつでも神を敬う礼拝者として生きる者でありたいのです

 私は礼拝奉仕者の皆さんにも、礼拝の時だけが奉仕の場ではないとお伝えしています。礼拝に向かって祈りのうちに心を整え、良い準備をして臨むこと。日々、みことばに教えられ、祈るようにして歩んで行くこと。そのすべてが実は神礼拝であり、神様への奉仕の一部でもあるのですよね。日曜日だけが良いということは、あり得ないと思います。良い信仰生活が良い奉仕を生む。良い説教も良い備えの日々から生まれるのではないでしょうか。 

 そして、神の近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げることにまさるとあります。それは「ささげられた物」ではなく、ささげる人間の姿勢が問われているからです。「愚かな者」とは、神の前に正しく生きていない人でしょう。月曜から土曜まで悪い生活をし続けて、日曜日だけ麗しい姿になることができるでしょうか。主は日曜日だけの神様では決してないのです。高価なささげ物をしているので、自分たちは神に受け入れられていると思うことは危険ですよね。「自分の足に気をつけよ」とあったように、あなたの歩みを振り返ってみなさいと言うのです。

 ですから、神が喜ばれるいけにえは、見栄えの良い上質な動物ではなく、私たち自身の日々の歩みが「神とともにあるのか」ということだとわかります。

ささげられる物は、結局は、ささげる人の人格や姿勢が現れていくわけですよね。神を恐れない人の賛美には、やはり神への敬意が感じられないでしょう。神の前にへりくだっていない人の祈りには、謙遜さが足りないでしょう。御霊によらない肉による奉仕は、キリストではなく自分の栄光を求めてしまうでしょう。

それゆえに、7節の最後にあるように「ただ、神を恐れること」だと語られているのです。何をするにしてもこれを大切にしていきたいですよね。


2節 神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。 

 こうしたみことばがあることで、本当に守られる私たちです。私たちはいつでも神様を意識して歩みます。今ここにイエス様が隣におられると思いながら。その時に、感情のままに、頭に血が昇ったままにことばを発するなら、なんと多くの罪を増し加えてしまうことでしょうか。私たちが神様の存在を空気にしてしまう時、おごり高ぶり、とても偉そうなことばを口にしてしまうのではないでしょうか。それで失敗をします。

けれども、神様は天におられる偉大なお方だ!と、恐れて敬意を抱くなら私たちは変えられていきます。身近な人に対しても横柄な態度を取ることから守られるのではないでしょうか。ある神学者はこのような言い方をしています。「もし、普段から神を恐れることを大切に生きているのなら、その人は「口が暴れる」ことから守られることでしょう」と。おもしろい表現ですよね。

ことばの制御は自力では難しいのです。神という偉大なお方とともに歩む必要があるのです。あるいは、罪を犯してしまった時にも、主を恐れる者であれば、謙虚に自分の非を認めます。謝罪したり、悔い改めたりすることができますよね。

2節後半では、神を恐れてことばを少なくせよと語られています。思いつくままについつい口にしてしまい、言い過ぎたという経験はありませんか。私は結構あります。ですから、神様に「ことばと態度をあなたのみ思いのままに整えてください」と祈るものでありたいのです。3節も2節に続き、深いつながりがあります。3節 仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。 仕事が多い人は忙しい人です。頭の中に多くの考えが常にあります。ゆえに、夢も多く見ます。また、ことばが多いということは、ことばを神の前に少しも精査していない、剪定していないということでしょう。せっかちで、焦ってことばを出すので、ことばで失敗しがちです。

4-5節の誓願の話も問題の本質は同じです。神様にじっくり祈り、落ち着いてことばを語らない。すると神がそこにおられることを忘れ、「絶対にこうだ」などと言ってしまう。神様を前にして、人が「絶対、100%などと安易に言えるでしょうか。時に、自己正当化のために軽々しく誓うかも知れません。言うべきでないことをつい言ってしまい、後悔もするでしょう。神を侮り、軽んじると、意図せず偽りを生んでしまうということもあるのです。

ですから、神の前で誓うなら、確実にそれを果たせと言うのです。いや、果たせないようなことは、そもそも誓わない方がよいと。 

こうして、神様を知れば知るほど、私たちは大言壮語したり、自慢したりする欲から解放されていきます。自分の無知を知り、自身の弱さを学び、自身の愛のなさに気づいていくからです。

私もあることについて、相手を説得しようとして、言い過ぎたのではないかと反省しているところです。もう少し言いようもあったのではないかと。懸念に心が引っ張られて、必要以上にことば数が多くなったのではないだろうかと。

6節でこう命じられています。

6節 あなたの口が、あなた自身を罪に陥らせないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。 

 これは、ごまかしや言い訳をする問題でしょう。口がすべって、思ってもないことを言ってしまったのです!なかったことにしてよ!という言い分。しかし、私たちは神様の前でそれを確かに語ったのです。ごまかしや言い訳ではなく、「ごめんなさい」と言える者でありたいのです。罪に対してはキリストの十字架があります。ですから、私たちが神様の前に罪を認め「ごめんなさい」をするなら、そこに完全な赦しがあります。けれども、罪をごまかし、言い訳して正当化し、なかったことにするのなら、赦しを求めもしないので赦されようがないのです。

神の怒りとは、罪を犯したことよりも、罪を認めない高慢さに向かって燃え上がるからです。偽りのことばや、言い訳のことば数を増やさず、神を恐れて、ことばも行いも整えていただこうではありませんか。

7節 夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。

少し触れましたが、夢が多いというのは、落ち着きなく忙しくしている日々を現します。頭の中に弁明や言い訳や様々なことばもあふれているのです。このようにして、ひたすら頭を稼働させてしまい、自分のことばで生活を埋め尽くすのをストップしませんか。むしろ、神のスペースを十分に備えましょう。神の声に聴く時間、神の声に心をささげ安らぐ時を大切にしたいのです。特にこれからクリスマスに向かいます。年末の忙しい季節です。だからこそ、私たちは主の御前に静まって、クリスマスをしっかりと味わいたいのです。仕事に、勉強に、心が支配され、イエス様をわが王としてお迎えせず、心の端に追いやってしまうことは避けたいのです。

預言者エリヤがイゼベルに命を狙われ、逃げるのに疲れ果てていた時、無理だという自分の声、「もう命を取って欲しい」との嘆きであふれていました。しかし、主は、エリヤに外に出てご自分の前に立つようおっしゃったのです。そこには主のさやかな声がありました。心が騒ぐ中で、主のかすかな御声を聴くように促されたのです。彼が主の声を聴いた時、預言者の仲間たちが大勢いることを聞かされました。勝手に孤独だ、一人だと思い込んでいただけです。主は仲間を備えておられたのです。主の助け、主のご計画があったのです。

自分のことばが多くなると、神の声はかき消され、その最善のご計画が見えなくなります。

さあ、私たちもこの忙しい時だからこそ、自分のことばを控え、まずは主のことばに聴こうではありませんか。

私たちのことばを減らし、慎み、神のみことばを私たちの中に豊かに住まわせましょう。

コロサイ3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに、豊かに住むようにしなさい。

今日、神様は、わたしを恐れ、ことばを慎むようにと語っておられます。あなたの混乱したことばで満たさず、わたしのことばを豊かに住まわせるようにと。恵み豊かなことばをもって、神と人とに語る者とならせていただきましょう。




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