東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル10章1~14節「ただ一度のささげもの」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/12/12

ヘブル10章1~14節「ただ一度のささげもの」

*** 12/10(日)主日礼拝 説教概略 ***

 次男が肺の気胸という病で入院した時、私自身、最も忙しい時期で心身ともに疲弊したのを覚えています。それに輪をかけるようにして、一度治って退院してから後、わずか1か月でこの病が再発しました。それは本人にとっても、家族にとってもさらなる追い打ちになりました。2度目の入院時には、手術をすることを選択せざるを得ませんでしたし、術後も血中酸素濃度が80台前半になるなど、心配させられる日々でした。


 今、手術から約8か月が経過しました。今のところ元気で、皆さんのお祈りに感謝しています。しかし、再発しないとは限らない病です。残念ながら手術をしても10%程度の再発率はあると言われます。いつ再発するのか、分かりません。

 そして、同じように再発の危険のある持病等を持っている方は少なくないのではと思うのです。私たちは大なり小なり、様々な不完全さを常に持ち、それがまたいつ出るのか?と、治療をしてさえも不安を抱くことがあるものです。

 「死に至る病」と言われる人の「罪」についても、かつては完全な解決がないものでした。しかし、罪とそのさばきの結果である永遠の死(滅び)に対して、再発率0%の救いがもたらされたのが、このクリスマスなのです。

 

1.繰り返された動物の犠牲  

 旧約時代、人は自分たちの犯した罪のきよめを受けるために、律法の定めに従い、動物の犠牲をささげていました。神は圧倒的に聖なる方ですので、人が罪に汚れたままで神の前に立つことは、滅びを意味することでした。

 聖書が教える罪とは、そのままイコール犯罪というわけではありません。人の基準ではなく、神の基準から外れていることなのです。神を無視して生きる自己中心です。行いが立派でも心の中で、憎み、妬み、他人の物を欲し、姦淫を犯し、強欲な闇があるなら、それらは神の前で罪なのです。私たちの心もそれを知っています。

 実は、動物の犠牲をささげる時、その頭の上に「手を置く」という行為が伴いました。この動物が人の罪へのさばきを身代わりに受けるゆえでした(罪へのさばき義務の移行)。そして、その動物の血が流されるたびに、「ああ、私の罪のゆえに申し訳ない」と思ったことでしょう。しかし、そのような「尊い犠牲」がささげられてもなお、人間は罪から解放されません。人々は罪の解決を得ることはできなかったのです。

1節にある通りです。

1  律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。 

 それらの犠牲が不完全で、罪の解決には至らなかったのです。ゆえに、動物の犠牲が繰り返されました。続く2-3節にはこうあります。

2  それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。3  ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。  

 動物の犠牲では完全な赦しが得られませんでした。ゆえに、毎年この犠牲が払われ続けたのです。それが止むことはありませんでした。これが律法の限界、人の行いの限界です

「きよくなろう!良くなろう!もうあの過ちは犯すまい!」と私たちは努力します。そうなりたいじゃないですか。ところが、そうなれない自分に辟易します。人は弱いのです。自分も他人も救えない。旧約の律法はその現実を私たちに明らかにしました。

 海で溺れている人が、隣で溺れている家族や友を助けられないように、自分の罪を解決できていない人に、他の人の救済はできないのです。それゆえに神様は、ご自分の御子を救いのために遣わされたのです。

 

2.完全な犠牲、神の子羊  

 その完全な救いの本体こそが、クリスマスに来られた神の御子キリストです

5  ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、 わたしに、からだを備えてくださいました。 

 ここは、旧約聖書の詩篇40篇の引用です()。
 
 はるか昔からこの救いの道が定められ、預言されていたのです。ここでは、神の御子キリストが私たちと同じように肉体をもって、人として来られたことを示しています。さらに7節では、このようにあります。

7 節 そのとき、わたしは申しました。 『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」 

 キリストは、神のみこころを完全に満たす救い主として来られました。みこころを行うために、人のからだを持ってお生まれになったのです。それが「クリスマス」です。聖書で、キリストは「神の子羊」とも語られています。その表現こそは、キリストご自身が、すべての動物のいけにえにまさる「完全な身代わり」であることを示しています。

8-9節では、その説明がなされています。9節の「初めのものを廃棄する」とは、キリストというささげ物が完全であるために、もはや旧約時代の祭儀は不要となったのだということです。

ですから、10節でこう宣言されているのです。

10  このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています

 

3.ただ一度のささげ物   

「ただ一度だけ」ということばが重要です。2節でも、旧約時代のいけにえが完全であれば、一度で終わったはずだが、そうじゃなかったとありました。また、12節、14節でも「一つのささげ物」ということが強調されています。

 私が神学生の時、礼拝学の授業で教会音楽の大家である岳藤豪希先生に教えていただいた時のことです。先生が、この「ただ一度だけ」ということを非常に強調されているのが印象的でした。その当時は、なぜ、そんなにそこを強調されているのか、いまいちよく分かりませんでした。しかし、学びを深める中で、「ただ一度だけ」ということの重みを少しずつ感じられるようになりました。

キリスト降誕のはるか昔から、ずっと繰り返し、何度も何度も、動物の犠牲がささげられ続けたのです。そのたびに血が流され、それでもなお完全な赦しと解放はなく、人々は罪悪感から完全に解放されることは難しかったのです。しかし、長い年月、繰り返されなければならなかったそのわざその犠牲が、ただ一度の犠牲によって終わりを告げたのです。

ただ一度、キリストがご自分をただ一つのささげ物として、十字架にささげられたからです。

ただ一度、ただ一つが意味することは、「永遠性」と「完全性」です。永遠なので1回でいい。完全なので、いくつもいらない。1つでいいのです。それは、11-12節の表現の中にも現わされています。11節では、普通の人間が祭司として奉仕する場合、毎日立って奉仕をし続けることが語られています。しかし、12節にあるように、キリストという完全な大祭司は、一つのささげ物をささげた後は、永遠に父なる神の右の座に着いたとありますよね。やってもやっても、人の罪を赦し切れないので、普通の祭司は毎日立ち続けて、奉仕をし続けた。しかし、キリストは完成させたので、天にある神の右に着座されているのです。 

多くの犠牲がささげられても成し遂げられなかった罪の赦しを、神の聖なる子羊なるキリストのいのちによって、完全に成し遂げてくださいました。唯一無二のささげ物なのです。先生は私の卒業後数年後に天に召されましたが、語ってくださった「ただ一度のキリストのみわざ」の重みは、今の私にも語りかけ続けています。

さらに14節で、そのささげ物の永遠性、完全性が確認されています。14  なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 

永遠を示す聖書の表現に、「初めもなく終わりもない」あるいは、「初めであり終わりである」という表現があります。旧約時代の人々は、未来に来られるキリストの救いを信じていました。キリスト以降の時代の人々は、すでに来られたキリストを信じて救いにあずかります。これは「永遠のみわざ」だから成り立つことだと言えます。

私たちは遠い昔のことだから、今の私と関係ないではなく、永遠のみわざゆえに、今もこれからも私たちに救いをもたらす唯一無二の一つの宥めのささげ物だと言えるのです。
 
 こうやって考えると、改めて旧約と新約の両方で聖書として完成しているのだと思わされます。皆さんも、新約だけで十字架の意味を理解しようとしてはいないでしょうか。それでは、せっかくの十字架の価値を正しく知ることは難しいでしょう。旧約時代に、長い年月を経ても人は罪から解放されなかったのです。多くの立派な人も存在し、多くの犠牲もささげられた。けれども依然として罪は残っていたのです。
だからこそ、キリストの十字架の必要でした!その深遠なる永遠に続く恵みの大きさを、時の経過とともにさらに深く、味わい知る者となりましょう。

 もはや、この罪の問題が再発することはありません。その不安、その恐れがないのです。なぜなら、キリストを信じて心に受け入れた人は、もう二度とその救いから放り出されることがないからです。病の再発におびえる私たちですが、罪の問題が再発して神のみもと、天の御国に入る道が閉ざされることは決してないのです!!

 コロナウイルスに対する副作用のない特効薬を、あなたが発見したのなら、あなたはこれを隠すことはないでしょう。多くの人に知らせるでしょう。

 キリストの十字架は、より深刻な人間の死、罪による滅び、神との交わりの断絶に対する回復薬、完全で永遠の癒しです。6回も7回もワクチンを打つ必要はありません。毎日たくさんの薬を飲み続ける必要もありません。ただ1度です。ただ1度で完全な罪の赦しと、死と滅びへの勝利をもたらしたキリストです。この方を一度、心から信じてお迎えするならば、この方が見捨てることはないのですから、その救いは永遠です。

 十字架に感謝し、平安のうちに歩みましょう。
 そして、この知らせを多くの人に届けて参りましょう。

 

 

※注  詩篇40篇の引用について。

引用元と当該ヘブル書では、若干異なる部分があります。そこにみことば理解の歴史的深まりを見ることができると考えられます。旧新約聖書の両方を併せて理解することで、神の真理がわかるようにされていると考えれば良いでしょう。

 5節の最後のところに「わたしに、からだを備えてくださいました」とあります。ここは引用元の原文では、「耳を開いてくださった」となっています。

実は、このヘブル人への手紙が著される頃には、旧約聖書のギリシャ語訳(LXX:七十人訳聖書)が生まれていました。そこからの引用だと考えられるのです。七十人訳聖書は、新約時代に入った頃には完成したと考えられます。詩篇で語られた時代から、時を経て、この翻訳において若干の解釈や要約などが翻訳に反映されている可能性があるのです(啓示の漸進性)。

「耳を開く」(=穴を掘る、くりぬくの意)。人は神の声に聞き応答する存在。人としての肉体を持って、神の声に聞き応答できる者、それが「からだを備えられた」という表現にまとめられたという可能性があります。詩篇40篇を、キリストが人として来られたことの宣言と解釈し、同時に古い祭儀の廃棄と新しい秩序の樹立を預言したものと解釈できるのです。

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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