東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイ1章18-25 「自分の思いから主のみ思いへ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/12/13

マタイ1章18-25 「自分の思いから主のみ思いへ」

*** 12/13(水)祈祷会 説教概略 ***

 エレミヤ書332-3節にこうあります。
「地を造った主(ヤハウェ)、それを形造って、堅く立てた主(ヤハウェ)、その名が主(ヤハウェ)である方が言われる。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』 

 今お読みした「主」ということばは、すべて太字となっています。そこは「ヤハウェ」という神の御名が記されているところです。神様はご自分の名を名乗りながら、わたしを呼べとおっしゃったのです。神様はご自分を呼ぶ者に、なんと答えてくださるのでしょうか。


「わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを告げよう」とおっしゃいました。実際、神様のなさることはいつも、私たちの思いや考えをはるかに超えています。しかし、しばしば私たちは、神様を呼びません。自分の知識と経験に頼り、これが正しいだろうと思い、その考えを拠り所にしてしまいます。

 昨日の女性クリスマス会も、私たちの予想よりも多くの方が来られました。主の不思議なみわざです。

 クリスマスに起こった出来事は、まさに人の思いや考えを超えていました。その渦中にいた人物として、イエス様の父となったヨセフがいます。ヨセフはクリスマスの登場人物の中では地味です。マリアとイエス様はもちろん、ともすると羊飼いや博士たちより目立たないのです。けれど、彼もまた尊い信仰者の一人でした。

 彼は、イエス様がマリアのお腹に宿った時、自分なりに正しいと思うことをしようとしましたが、神様から示される中で、自分の思いから主のみ思いへと導かれて行きました。


1. ヨセフなりの正しさ


18 節 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。 

 マリアが聖霊によって身ごもっているとヨセフが知った時、彼の驚きと不安は、相当なものであっただろうと思います。「聖霊によって妊娠したのよ」と言われても、何を言っているのかわからなかったでしょう。「信じよ」と言われても、そう簡単に信じられるものではありません。場合によっては「相手の男は誰だ?なぜ、そんな嘘をついてごまかすのだ!」と疑い、怒りにとらわれたかも知れません。

 それでも、マリアの誠実さも知るヨセフです。マリアの言うことだから信じようと努力したことでしょう。ただし、仮に自分が信じられても、周囲の人々は、荒唐無稽すぎて信じられないのではないかと不安になったことでしょう。そこでヨセフは、悩みの果てに19節のように考えたわけです。

19節  夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。 彼は正しい人であったと語られています。まじめに、まっすぐに神様の前に誠実であろうとしていた人です。その彼は悩んだ挙句に、彼女をさらし者にしないようにすることが正しいことと考えたのです。

 具体的には・・・結婚前に、自分と関係していないマリアが妊娠したわけですから、相手の不貞だと問題にする方法も可能でした。その場合、ヨセフは人々から同情され、慰謝料等を得ることも可能だったかも知れません。ただ、この場合、マリアは大変です。石打ちの刑にされ命が奪われる可能性がありました。死刑は免れても、汚名を一生背負うことになるでしょう。

 ですから、ヨセフはそうしませんでした。

 彼はなんとかしてマリアを信じて守ろうとしたからです。けれども、周囲からは理解されないだろうとも考え、様々な恐れから、「秘密裏に離縁する道」を考えたのです。これだとヨセフは不利益を受けるでしょう。経済面でも名誉という点でも、彼がすべての不利益をかぶる覚悟であったと言えます。これが彼なりの正しさでした。そうそういない、まじめないい人です。男らしいとも言えるかも知れません。マリアを大切にしていることもわかります。

 ところが、これらのみことばをよく味わうと、ヨセフの中に、神様によって取り扱われる必要のある二つの課題があることに気づきます。

2.二つの課題

第一に、これらはすべてヨセフが「思ったこと」、ヨセフが「決めたこと」だということです。19節では「思った」と締め括られます。「決意した」と訳してもいいでしょう。彼が自分の頭で考え、彼の価値観と常識に照らし合わせ、その上で、これが正しいだろうと「思った」ことなのです。彼はまじめな人でした。正しく生きようとしていました。でも、ここで一つ足りなかったことは、神を呼び求める、神のみこころを求めるということでした。 私たちも同様な日々を送りがちです。まじめなクリスチャンほど、自分で考え、自分の正しさを基準にして、必死に悩みます。ああでもない、こうでもないと自分なりに考えます。しかし、それはともすると「私はこう思う」という自分の世界に閉じこもることにもなりかねないのです。主にあって、世界を広げなければなりません。自分の思いを一旦そこに置いて、神様に「あなたの思い」は何ですかと、問う者でありたいのです。「人知をはるかに超える神の壮大なご計画は何でしょうか」と、神様に尋ね求める姿勢です。最初に紹介したエレミヤ書のみことばのように、主は私たちに、人の考えをはるかに超える大いなることを告げようとされているのです。

第二に、ヨセフは「恐れる」がゆえに、これを決断しようとしていたということです。ヨセフは神を恐れる代わりに、別のものを恐れました。20-21節で示されています。

20  彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21  マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 

 これからの手はずを考え、思い巡らしていたヨセフに、神様は夢の中で御使いによって語られました。「恐れずにマリアを妻として迎えなさい」と。彼の思いとは正反対でした。神は離縁ではなく、妻として迎えよと言われたのです。そして、彼の動機に関わることばがここにあります。神様は「恐れずに」と語られたのです。ヨセフがひそかに離縁しようと考えた動機の中に「恐れ」があったのでしょう。将来についての恐れ、人からの批判や奇異の目で見られることへの恐れ。あるいは、自分の器の小ささが明らかになるのではないか、そんな恐れもあったかも知れません。

 私たちは自分でも気づかないような「恐れ」を心に抱いて歩んでいるのかも知れません。そして、時に、その恐れが原因となり、積極的に行動できず、否定的・消極的な言動が多く現れてしまうことがあります。 本当は声をあげたら良い場面でも、恐れが先立ち黙ってしまう。福音を伝えるチャンスがありながらも、嫌われたらどうしようと恐れが先立つ。恐れのゆえに奉仕を引き受けられないこともあるでしょう。反対に、人を恐れるがゆえに断ることができない、ということもあるでしょう。

 その時に主を呼び求めることが抜け落ちてしまうことはないでしょうか。
 あるいは、先に自分の思いで結論を出し、それから神様に形ばかり祈って「これでいいですよね」と最初から最後まで自分で結論付けることもあるかも知れません。結果、神のおこころとは異なる結論を「正しい」とさえ思ってしまうのです。

 しかし、ここで、主は「恐れずに迎えよ」と励ましてくださいました。それは「聖霊による」ことだとも言われました。聖霊によるとは、「神のみわざである」ということです。「イエス」と名づけよとも言われます。イエスとは「ヤハウェ(主)は救いである」との意味です。イエス様を受け入れるとは、まさに「ヤハウェ」という名を持つ主にこそ、救いがあると信じることです。21節最後に「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と明らかにされ、夢は終わります。

 私たちも自分の正しさを持ち、自分の中で結論を出すことが少なくないでしょう。しかし、自分の思いの檻から、主に信頼して檻から飛び出す者でありたいと思います。
 
 神様を呼び求めましょう。主が、私の小さな考えを超えたことを告げようとなさっているのです。それは、人の考えにまさる平安をもたらすみわざです。神以外のものを恐れる時、神のみこころから外れます。神様だけを恐れ、この方の救いを待ち望みましょう。

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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