東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ書11章1-10節「まことの王による平和」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/12/18

イザヤ書11章1-10節「まことの王による平和」

*** 12/17(日)アドベント第三 主日礼拝 説教概略 ***

今、日本を見ても世界を見渡しても、真のリーダーが不在のように思えてなりません。争いが絶えず、不正が絶えず、私利私欲で動いている為政者ばかりに見えます。もちろん、完全な人などいませんが、少なくとも誠実に、不正なく人々のために導いて欲しいのです。
しかし、こうした世界だからこそ、まことの王キリストの存在が、闇の中でいっそう輝くように思われるのです。私たちは正義と真実に満ちたまことの王を望みます。真の平和を待ち望んでいるのです。



 今日のみことばは、その預言です。希望にあふれています。とても贅沢な内容で、クリスマス預言と世の終わりの「新天新地」(新しい天と新しい地)の預言の両方があります。世の終わりに、キリストが再臨し、サタン滅ぼして永遠に続く新天新地をもたらします。両方を一度に味える預言のみことばという意味では、希望にあふれたみことばです。

 今日読んでいただいた最初の1節と最後の10節には「エッサイの根」ということばが出てきます。これに挟まれるようにして、「エッサイの根」から生まれる「まことの王キリスト」が語られます(サンドイッチ構造)。この「まことの王キリストによる統治とその平和」について、ともに教えられて参りましょう。

 

1.王の出自・資質  

1節 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 ダビデではなく「エッサイの根株」と語られています。エッサイはダビデのお父さんです。しかし、明らかにダビデに比べて知名度が低いですよね。実際、イエス様はダビデの子孫と称されるのが通例です。それならば、なぜ、ダビデではなく「エッサイ」の名が出されているのでしょうか。それは神のみわざが現れるためです。 

エッサイは王族ではなく、ただの羊飼いでした。羊飼いは貧しく、取るに足らない存在と考えられていました。そのようなエッサイから、ダビデ王が生まれ、やがて救い主がその家系から誕生するのです。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こせると、福音書でも語られています。最も小さなところから、神様が大いなる者を起こされるのです。

イエス様が生まれたベツレヘムも何の変哲もない小さな町でした。この東村山市のように、特別な特産品や名物もあまりない町です。東村山と言えば?と聞くと、9割の人が「志村ケン」と答える。それしかないからでしょう(笑)。

ベツレヘムもそれと似ていて、小さな何もないような町でした。でも、イエス様が生まれた町と言えば?「ベツレヘム!」と声があがる。ベツレヘムは小さな町でありながら、救い主イエス様を輩出したという意味で、今でも世界中で語り継がれる有名な町となったのです。もはや、神様によって小さな存在ではなくなりました。

そして、「根株から新芽が生え、若枝が出て実を結ぶ」と続きます。それはイスラエルの国が滅ぼされ、もう復活できないほどの弱り果てた状態の暗示です。満身創痍の根株の状態なのに、そこから小さな新芽が生え出て来ると言うのです。イザヤ53:2では同じことを「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た」と表現します。「ひこばえ」とは、木の切り株(根株)の脇から出て来る新芽のことです。死んだような切り株から新芽が生え、やがて成長して実を結ぶようになるとの預言を主はくださったのです。

それは人間の能力によらない。人間の地位によらない。人間の血筋の力によらないこと。ただ神様の大いなるみわざ、奇跡であることを示します

イエス様は確かに、ダビデ王の子孫です。しかし、同時にごく普通の羊飼いの子孫でもあります。さらにイエス様の父ヨセフは大工です。家はとても貧しかったのです。けれども、人の評価が何になるでしょうか。神様はそこから、大いなる全人類の救いを起こされたのです。

私たちも自分の無力さや力のなさを悲しむ必要などありません。自分に価値が見いだせないことがあるかも知れません。あまり学歴がない。スキルや資格がない。地味で華やかさがない。そんなことが何のマイナスになるでしょうか。あなたが神とともにあるなら、大いに用いられる「尊い器」なのです。人を助け、人を慰め、人に勇気を与える存在なのです。 

イエス様は、人間的には小さな立場の低い者として生まれました。貧しい大工の息子、小さな町の家畜小屋で生まれ、ナザレという田舎で育ちました。けれど、神の御霊による知恵と力に満ちていました。2節 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。 人の力のよらず、能力や権力によらず、ただ神の霊による者こそ、まことの王としての資質に富むのです。

 

2.王の統治  

3節から5節は、まことの王による統治が預言されています。特に3節は、この人物の最大の美徳として、「主を恐れること」が挙げられています。

3節 この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、 

箴言には「主を恐れることは知識(知恵)の初め」とあります。すべての知恵と知識は神を知ることから始まるからです。神を知る者はとても賢くなれるのです。上からの知恵ですから!主イエス様は、御父を誰よりも恐れるがゆえに、正しい最高の王です!!

その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず」とあります。愚かな王は本質を見抜けず、表面的なことでしか判断できません。しかし、この方は、上辺で物事をさばかず、本質や中身で正しく判断なさるのです。今の世界は上辺ばかり、表面的にごまかしてばかりです。本質をきちんと見抜く正義が欲しいですよね。

 さらに、箴言には「主を恐れることは悪を憎むこと」ともあります(8:13)。この世の中は、神を恐れないために、「人に見つからなければ何をやっても大丈夫」という発想に陥りがちです。イエス・キリストこそ、悪を憎み、正義をなす、それでいて愛に満ちた王です。神を恐れるがゆえに、真の正義をもって治めることができます。
それは4-5節で具体的に語られています。 

4節 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
5節 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

 キリストの正義は人間が持つ自分勝手な正義ではないとわかります。そこに公正さがあり、常に真実でいらっしゃる。だからこそ、弱い者も貧しい者も、不当に扱われることがありません。この方が治めてくださる世界。その行きつく先はどのようなものでしょう。

 

3.王のもたらす平和と世界的広がり  

6-7節にこうあります。

6節 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
7節 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。 

これがイエス様の治める世界の完成形です。それはエデンの園の回復であり、神の国の完成=「新しい天と新しい地」です(Cf.イザヤ書65章)。

なんとも心が穏やかになる癒しの光景が広がります。狼と子羊がともに宿る。豹が子やぎと一緒に安らぎます。ライオンが子牛や肥えた家畜を前にしても、手を出さない!それどころか一緒に安心して過ごせる!牛と熊が一緒に草を食べ、ライオンも一緒に草を食べます。弱肉強食が終わり、小さな子どもたちも、襲われる心配なくともに安心して過ごせるのです。

8節では、コブラ、まむしなどの毒のある蛇について触れられています。サタンは蛇の姿をもってアダムとエバを誘惑しました。しかし、ここでは、これらの毒蛇と幼子が、安心して触れ合うことができる様子が語られています。それは、悪魔が完全に滅ぼされ、蛇が悪魔の支配から解放され、毒の無い安全な生き物となっているからです。

もはや悲しみもなく、病もなく、苦しみも別離も死もない世界。私たちは主イエス様が、再びこの世界に来られ、この完全な平和をもたらすことを待ち望んでいるのです。アドベントには、この将来への待ち望みの意味もあるわけです。

 そして、イエス様を知る者が世界に満ちていく。その広がりが預言されています。10節。

10節 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。 

 一介の羊飼いというエッサイの根から生じた新芽でしたが、豊かに育ち、やがて世界の国々が彼を求めるようになり、その平和な国が世界に広がります。今はまだその途上にありますが、確かに歴史の中で起こって参りました。キリストが生まれ、その周囲にはわずかな弟子たちしかいませんでした。12人の使徒、周囲にもう少しいた弟子を入れても数十人。

 けれども、キリストの福音は留まることを知らず、弟子が増え、世界中にこの名が知らされています。この方の誕生を基準にして年が刻まれ、クリスマスは世界中で祝われ、聖書は全世界ギネス記録のベストセラーです。国々が彼を求めているのです。

主は、小さな倒れ果てた切り株から、全世界の救い主を起こされました。

その先に本当の平和な世界をも備えておられます。今は苦しくとも、必ず私たちは飾られて、この平和な世界に導き入れられるのです。なんと幸いでしょうか。小さいこと、無力であることを一切卑下する必要はありません。むしろ、私たちが弱いからこそ、神の偉大な力がよく露わにされることを誇りましょう。この方にあって強いのです。この方にあって価値があるのです。この方にあって私たちは輝くのです。

 ですから、私たちはこのお方を救い主として信じるだけでなく、この方に心の王座をいつでも明け渡し、またゆだねて参りましょう。 


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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