東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイ2章16-18節「嘆きから望みへ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/12/23

マタイ2章16-18節「嘆きから望みへ」

*** 12/20(水)祈祷会 説教概略 ***

 ルカの福音書によれば、イエス様は人々の反対にあう「しるし」として定められているとあります。また、多くの人々の罪深い思いが明らかにされていく存在であると語られています。それゆえ、母マリアの心は剣で刺し貫かれるとも語られているのです。

 クリスマスは素晴らしい喜びの季節です。しかし、その背後に、イエス様の尊い犠牲があることを忘れてはなりません。人の罪を明らかにし、そのすべての罪を背負って死なれるという愛のみわざがなされたからです。


 イエス様の生涯は、最初から茨の道でありました。最も貧しく、最も汚れた罪のただ中にお生まれになりましたね。それどころか、その人生の始まりにおいて、なんとイエス様は一国の王から命を狙われ、身をひそめなければなりませんでした。

 当時、イエス様の誕生を喜ぶどころか、脅威に思い、虐殺しようと考えた者が確かにいました。ヘロデ大王でした。ヘロデ王は、紀元前37年からローマ帝国の支援を受けてユダヤ全土を支配し、治めるようになりました。国土の広さだけなら、ダビデやソロモン時代に匹敵するほどと言われています。

 彼は猜疑心が非常に強く、人を信頼できず、常に裏切りを恐れ、残忍にも平然と人を殺す権力者だったのです。イエス様もその殺意の対象となりました。生まれて間もない頃から、このヘロデ王から命を狙われたのです。というのも、ヘロデ王はユダヤ人から「のろわれた民」と軽蔑されていたエドム人であったからです。しかも、彼の治世は決して褒められたものではなく、独裁と重税により、ユダヤ国民から嫌われていたからです。

 そこに、「ユダヤ人の王」として生まれる方の星を見て礼拝しに来たと言って、東方から博士たちが訪れたのです。その時のヘロデの反応は3節にあります。3節 これを聞いてヘロデ王は動揺した。以前の訳(新改訳第3版)では「恐れ惑った」でした。

 先週はヨセフの話でしたが、彼がマリアをひそかに離縁しようとした背後に「恐れ」があったことをお話しました。その恐れのゆえに、神のみこころとは反対の行動を取ろうと思ってしまったのでした。それでもヨセフは、神様からその恐れを取り扱われ、恐れに勝利して、マリアを迎えたので祝福されました。主を恐れる者の姿勢です。けれど、ヘロデ王は恐れてひどく動揺し、イエス様の居場所を突き止めて、殺害しようと考えたのです。彼は自分の立場が失われることを恐れ、裏切りを恐れ、人を恐れ、保身のために殺意を抱いたのです。

 しかし、博士たちは神様からヘロデ王のもとに戻らないよう告げられ、別の道で帰国しました。イエス様とその家族も、この地域の危険を主の使いから示され、エジプトに身を避けるかたちになります。こうして、ヘロデはイエス様の居場所を見つけることができませんでした。彼はそれで、とんでもない方法でイエス様を殺そうとします。

 なんと、ベツレヘム周辺の2歳児以下の男の子たちを手あたり次第、殺害してしまうのです。

16節 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 

 もちろん、ベツレヘム周辺一帯は、それほど人口が多いわけではありません。それで、殺された子どもたちもおそらく、2030人ではないかと考えられます。それにしても、イエス様を殺すために、手あたり次第、同年代の子を殺すと言うのはあまりにも残虐ですよね。

 人の心に起こる恐れ、保身、あるいは妬みなどは、しばしば本当に苦々しい「毒」となり得ます。それは邪悪な行動や殺意とさえなり得るのですから、そうした思いを主に取り扱っていただくことは大切なことです。

 現代社会においても、一般市民が巻き込まれ、小さな子どもたちが平然と殺されるような戦争、虐殺が少なからず起こっています。しばしばそれらを当人たちは正当化してさえいます。人の罪がいかにひどいものなのか、思い知らされるのです。

 
 マタイは、この出来事について、旧約のみことばを引用して預言通りであったと示しています。
17節 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
18節「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 

エレミヤ書3115節のみことばの成就でした。(引用元:エレ31:15 主はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」) 

ラケルが嘆き泣いていると語られています。ラケルとは、イスラエルの生みの母にあたります。エレミヤの時代、多くの罪のためにイスラエルが滅んで行く様を嘆いて、このような表現がありました。ちょうど、バビロンに囚われていく人々が、このラケルのお墓のそばを通ったそうです。そこが「ラマ」と呼ばれる地域で、ラケルの子孫の町でした。このバビロン捕囚の際に、その子孫の悲惨な末路を墓の中のラケルが嘆き悲しんでいるという意味で語られていたのです。慰めを拒むほどの絶望の嘆きです。

このラマがあった場所は「ベツレヘムへの道」と呼ばれる道にありました(創世35:19)。ですから、ベツレヘムで子を失った母たちの嘆きを現す預言として、ここに成就したのだとマタイは説き明かしているのでしょう。いつの時代でも、子どもたちが親より先に死ぬことは、本当に悲惨な現実です。神を求めない、悔い改めない人の歩みは、こうした悲惨な歴史を繰り返してしまうのです。

 イエス様は、このような人間の殺意により、慰めを拒むほどの悲しみを持つ人々の隣人としてお生まれになったのです。主はご自身にその殺意が向けられました。

 それは公生涯が始まってからもそうでした。人々は自分の罪があばかれることを恐れ、あるいは地位や立場を失うことを恐れ、イエス様を妬み、憎み、攻撃しました。最後にはついに十字架にかけて殺害したのです

 イエス様ご自身が、そのようにして苦難の道を歩まれたのは、まさに私たちの弱さや痛みをわかってくださる証しです。私たち人間の「代表」としてふさわしいことでした。罪こそ犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じになられたからです。弱さを知り、同情でしてくださり、慰めてくださるのです。そこに愛と赦しがあります。

 ある難病患者は、誰が来ても慰めを拒んでいました。しかし、同じ病で苦しむ人の訪問によって、非常に慰められたと聞きます。主は人の悪意をすべて受けて、命までも奪われるほどに、へりくだり、私たちの隣人になってくださったのです。


実は、この引用元のエレミヤ書には続きがあり、そこには神の救いの希望が示されているのです。エレミヤ書311617節 

16節 主はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。
17節 あなたの将来には望みがある。──主のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。 

嘆きで終わっていないということです。主の救いを待ち望む者は、必ず嘆きが望みへと変えられていくのだということです。エレミヤの時代においては、その70年後に捕囚の民が帰還するという救いが起こりました。不可能に思えたイスラエルの国の再建がなされました。それはすでに成就したことを私たちは歴史として知っています。

ただ、それだけではなく、その将来における救い主イエス様による救いをも表していました悲しみのあったところに、主は望みを備えてくださいます。どんなに厳しい状況にあっても、主の慰めがあるのです。主の癒しがあるのです。 

エレミヤ3116節に、「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ」とあります。「もう泣くのをやめなさい。わたしがともにいるのだから。わたしの救いがあるのだから」と主は言われるのです。

 私たちの悲しみを誰よりも知ってくださる主がともにおられます。私たちと同じように誘惑にあい、命を狙われ続け、苦しみを担ってくださった方です。私たちの目の涙をぬぐい去ってくださる優しいお方です。この方が私たちの「友」となり、愛する友のために、いのちまでも差し出してくださいました。永遠に私たちの友でいてくださる主です。

 ですから、主にあって悲しみの涙を拭い取っていただきましょう。嘆きを望みへ、喜びへ変えてくださる主に、心から信頼して前に進みましょう!恐れないで、前に!

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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