一つは「イエス」という名前です。この名前に関しては、イエス・キリストとして多くの人に知られています。そして、二つ目の呼び名は、「インマヌエル」という名でした。こちらはご存じない方もあるかも知れません。
今日は、「イエス」という名前と、「インマヌエル」という呼称。二つの意味をご一緒に味わい、このクリスマスを豊かに過ごして参りましょう。
1.イエス・キリスト、神の救い主
ではまず、「イエス」という名について教えられましょう。
神様は、ご自分が遣わした御子キリストに、「イエス」と名付けるよう命じられました。21節にそのことが語られています。
21節 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
ここにあるように、マリアから生まれる男の子の名前として、「イエス」と名付けよと、神様は命じられました。それは決して珍しい名前ではありません。当時の男性の名前としてよく用いられた名前でした。ですから、イエスという名前には、神である方が、私たちと同じ人間となられたという意図も込められています。
では、その上でイエスという名前の意味は何でしょう。
「はい」という意味ではありません(笑)
「神は救いである」という意味でした。それは、21節の中で、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とある通りです。その生涯、その使命にふさわしい名前でした。
では、ここにある「ご自分の民」とは誰でしょう。イスラエル人でしょうか。確かに旧約時代、神様はイスラエルの人々をお選びになりました。しかし、神のご計画は、このイスラエル人が「神のしもべ」として、彼らを通して、世界のすべての人々に神の救いを告げ知らせるものでした。
ヨハネの福音書3章16節にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」。
ですから「ご自分の民」とは、イスラエル人に限りません。神を信じるすべての人が「神の民」としていただけるのです。ところが、神様によって造られ、愛されているのに、その真実を無視し、感謝もせず神に背を向けて歩んでいる人が多くいます。これらの人々を神の民、神の子と呼ぶことは難しいですよね。
このように、神である方を、神としてあがめないで生きること、神を無視し、自己中心に生きることを聖書では「罪」であると言います。この罪のゆえに、神との親密な親子の交わりが破壊されたままであり、人は神の愛の統治ではなく、罪の奴隷として悪魔に仕えてしまっているのです。
幸せになりたいと切に願いながらも、幸せへと続く正しい真理の道を示す神様を求めないので、滅びに向かう悪魔を笑顔にする行動をどれだけ取ってしまっているでしょうか。かつての私もそうでした。神様を信じていないはずなのに、お腹が痛くてたまらない時は、必死に神様に祈りました。一方で、自分に不都合なことが起こると、「神様はなぜこんなひどいことをするのか」と、神様をさばく立場になりました。
そこには、神様を都合よく利用する自己中心と、神様を知ろうとしさえしない自分勝手さがあったのです。神様が私の罪深さを見てさばく立場なのに、自分が神様をさばき利用する立場に立つ傲慢さがありました。それこそ、神を神としてあがめない罪深い姿です。
けれど、このような傲慢で自分勝手な者を神様は愛してくださいました。
ゆえに、大切なひとり子イエス様を、私の代わりに十字架につけ、私のために罪のさばきをイエス様の上になさったのです。十字架の上では、「父よ、彼をお赦しください」との祈りが、私のような身勝手な者のためにささげられました。こうして、その名前の通り「神は救いである」と信じる者は、誰でもあっても、「神の民」、「神のこども」とされる恵みをくださったのです。 神様はあなたを愛し、あなたを罪から解放し、あなたをご自分の民として祝福したいのです。
2.ともにおられる神(インマヌエル)
キリストに与えられたもう一つの呼び名が記されています。23節です。
23 「見よ、処女が身ごもっている。 そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
ここにありますように、「インマヌエル」という呼び名です。
その意味は「神が私たちとともにおられる」でした。
この世界にはあふれるほどの宗教、神々があります。日本では、日本の人口を超える数の神々があると言われています。人がたくさん創作しているのです。何でも神様にします。
しかし、「神が私たちとともにおられる」という名前の神は、他にあるでしょうか。いつもともにおられる神、なんと優しく温かいことでしょうか。私たちが成功している時だけでない。評価されている時だけでない。苦しい時、上手くいかない時、わがままな獣のような時、人から見捨てられた時。その時にも、変わらず私たちのそばに、いつもいてくださる。愛してくださる神なのです。
ある牧師の著書(遠藤嘉信師「主の御顔を避けて」)の中で、このような実体験がありました。海外に滞在中に知人の幼い女の子が、先生夫妻のもとに預けられたそうです。この子は少し弱さ(障害)を抱えていたようで、家に来るなり、何の脈絡もなく「嫌いよ」と連発したと言うのです。でも、ご夫妻は神様から知恵をいただき、すぐにこの子の心に気づきました。それは小さな少女の必死の叫びであったと言うのです。「愛されたい」と上手に表現できない不器用な少女の訴えでした。どうしたら相手から信頼を得られるのか。どうしたら受け入れてもらえるのか。彼女は分からなかったのです。その結果、「嫌いよ」ということばで、相手の注意を引き、あるいは反抗して関りを求めたというのです。そこで先生夫妻は「嫌いよ」と言われるたびに「愛してるよ」と言い続けたと言います。どんなに「嫌いよ」と言われても「愛してるよ」と返し続けたのです。そして彼女を本当に愛したのだそうです。それは犠牲と忍耐でしょう。けれども、こうした歩みの中で、ある時からこの子が「嫌いよ」と言わなくなり、先生夫妻の家に来るのを楽しみにするようになったと言います。
一つの「試し行動」ではないかと思います。捨てられるのではないかと不安なのです。わざと悪いことをし、ワガママな態度を取り、自分への愛を試すのです。実は、大人であっても、時々、このような態度を取ることがあるのではないでしょうか。
見捨てられることへの恐れ。それゆえに人を傷つけてしまう自分が嫌でなりません。見捨てられる痛みを恐れるあまり、相手との関係を自ら切ってしまうこともあるでしょう。これは、私たちすべての人間の基本的な欲求と関係しています。
数学者、哲学者でもあるパスカルは、人の心には神の愛によってしか埋めることのできない空洞があると言いました。別の物で埋めようと必死ですが、埋まらないのです。たくさん買い物をしたり、美味しい物を食べたり、恋人や家族によって埋めたいと願いますが、その空洞を埋めることができません。そこに永遠で完全な愛はないからです。私たちは魂の深いところで、決して失われない、変わることない「永遠の愛」を求めているのです。
「インマヌエル」とは、いつも、いついつまでも、神がともにおられることを示す名です。キリストは、あなたの友、あなたの隣人となるために来られました。どんな時でも、あなたを見捨てることのなく、いつまでもともにいてくださる神様です。
マーガレット・パワーズという人が作った「足跡」という有名な詩があります。夢の中で、なぎさをイエス様と私で歩いている。その足跡は人生の軌跡です。遠くから続いており、いつも二人分ありました。ところが、ある個所は足跡が1つだけになっていることに気づきます。それは耐えがたいほどの苦しい試練の時でした。「主よ、なぜ、ともにいてくださらなかったのですか」と尋ねると、主はこう答えられました。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。足跡が一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていたのだよ」と。
この詩に象徴されるように、神様は私たちが耐えられない試練を与えず、本当に苦しい時には、主ご自身が私たちを背負ってくださるのです。
私たちを罪とその滅びから救ってくださるイエス様。どのような時にも決して見捨てず、ともにおられるインマヌエルなる方。この救い主をぜひ、心にお迎えください。神の子とされ、すべての罪が赦され、あなたは永遠に神の民とされ、恵みと祝福があなたを離れません。