*** 12/3(日)アドベント主日礼拝 説教概略 ***
「アドベント」と呼ばれる時節を迎えています。そこで、子どもたちも含めて3択クイズです。アドベントとはどういう意味でしょう?
1.冒険・探検 2.アドさんのお弁当 3.「待ち望む」という意味
正解は3番です。元々は到来、来臨などの意味を持ちますが、そこから「それを待ち望む」との意味となっていきました。キリスト降誕よりも前の時代、旧約聖書の時代。その時代には、まだ人の前に現れていないキリストによる救いを、みことばによって待ち望むという信仰がありました。
現代を生きる私たちは、すでに起こった事として、しかし直接目撃したわけではない中で、やはり聖書のおことばを信頼して、キリストの十字架を受け入れているのです。同時に、将来の世界の終りの時のキリストの再臨と救いの完成についても、みことばを信じて待ち望んでいるのです。
本日は、旧約聖書の時代に、キリストを待ち望む恵みが語られていたことに目を留めます。
1. 神の恵みがまずある
今から3000年ほど前の話。キリスト降誕よりも1000年ほど前の時代です。イスラエルに内乱が続いていましたが、ダビデ王が全部族を治め、エルサレムを拠点とするに至りました。そして1節にあるように、少し落ち着いた時間が訪れた時でありました。ダビデはそこでこう思ったのです。2節。
2 王は預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」
自分は立派な家に住めるようになった。でも、神様の存在を示す神の箱は、天幕(簡易テント)の中に置かれている。ダビデは、これでは申し訳ないと思ったのです。預言者ナタンは、神様を思って何かをしようとするのは良いことであると考えこう言いました。
3 ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」
「神様のために」という動機で何かをしようとする時、励みになることばに思います。確かに神様は、その動機は良いと考えておられました。それは第一列王記8章18節で語られています。『あなたの心にはいつも、わたしの名のために家を建てたいという思いがあった。その思いがあなたの心にあったことは、良いことである』と。
しかし、その動機は良いのだけれども、神様には別のご計画がありました。
そもそも、人が神様のために家を建てるという発想がふさわしくないことを、主は優しく気づかせてくださいました。むしろ、神様が私たちのためにまずしてくださっているのです。「主が家を建てるのでなければ、家を建てる者の働きはむなしい」とも詩篇にあります。
「主がなしてくださるのだ」という考えを抜きにすると、「自分は神のために何かをなしたのだ」という驕りも生まれるからです。
それで主は、5-11節にかけてみこころを示します。5節では「あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。」と問いかけます。
さらに7節以降では、あなたがたに杉材の家を建てて欲しいなどと頼んだことは一度もなく、むしろすべてを与え、守り導いてきたのは神であるわたしではないかと語られたのです。
神様はご自分ですべてを満たすことのできる方です。全知全能ですから。ゆえに、人間の供え物や奉仕がなくても少しも困りません。常に満ち足りています!!
それで、神様は11節の最後でこのようにおっしゃいました。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。」 「あなたがわたしのために家を建てるのではない。わたしがあなたのために家を建てるのだ。」と。
これが聖書の語る神と人間の関係性です。これを知らないと、人間が神様のために「何かをしてあげなければ」と考える高慢に陥ります。はっきり言えば、私たちが礼拝したり、賛美したり、奉仕したりするのは、それがないと困るとか、不足するからではないのです。
むしろ私たちのために、礼拝のささげ方を教え、賛美の恵みを教え、祈りのわざをプレゼントしてくださいました。神に造られた私たちにとって、それらが恵みと祝福を豊かに受ける道なのです。もちろん、神様ご自身もその交わりを喜んでくださいます。そこに愛があります。ですから礼拝は強いられてここにいるのではなく、神様の恵みによって礼拝できるよう守られて、ここにいるのです。奉仕も「してあげるもの」ではなく、主のあわれみのうちに「させていただくもの」「続けさせていただいているもの」なのです。
2.クリスマス預言(主がダビデの家を建てることの具体的な内容)
このような中にクリスマスの預言が示されていることは興味深いです。神様はダビデに、「あなたのために一つの家を造る」という文脈の中で、その子孫の祝福をお示しくださいました。
12節 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
ここは直接的には、ダビデの死後、その子どもが王国を確立させるという約束です。しかし、実にここにはクリスマスの預言が含まれているのです。それは、これよりもずっと後の時代に、ダビデの家系からこの世界全体のまことの王、キリストが生まれるということです。この節で「世継ぎの子(zera)」と訳されていることばは、「子孫」全体を意味することばでもあります。かつて、主がアブラハムの子孫を星の数のように増やすと約束された時と同じことばです。歴史の中で神様が預言された約束の救い主、まことの王がイエス・キリストです。ですから13節でもこうあります。
13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
確かにこれらの預言は直接的にはダビデの実子ソロモンに適用されるものでした。しかしながら、永遠の視点を持つ神様は、その地点だけを見てはいません。ソロモンを見ると同時に、その将来においてこの子孫として御子を贈るご計画を持っていることに触れています。ここでは「わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と語られます。特に「とこしえまでも」という、永遠性に触れているのです。それは、15-16節においても現れています。
15節 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。16 節 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
ここにあるようにサウル王のように、神を侮る者は恵みを失うことがあるとしても、神に従順なキリストから取り去られることはなく、キリストにあるすべての者もそうなのです。それどころか、「あなたの家とあなたの王国は、とこしえまでも確かなものとなる」とも宣言されました。
やはりここでも「とこしえ」ということばがありますよね。ダビデの子孫の繁栄を語りながらも、同時にキリストの永遠の御国について語られています。
ただ、ダビデは決して聖人君子ではありません。この後、大きな罪を犯します。自分の家臣の妻を奪い、その家臣を殺してしまいます。ひどいことです。
それでも心から悔い改め、神を求め続けるダビデに、神様はあわれみをかけ見捨てるどころか、この祝福をくださっているのです。人の力によらないと分かります。
3.神の恵みに応答する
このようにキリスト預言の背景を味わう時に、神様の深いご愛を感じます。赦しがあります。あわれみがあります。私たちが正しいから、救ってくださるのではない。私たちが立派だから、恵みと祝福をくださるのではない。罪あるところにさえ、悔いる砕かれた心で主を求めるなら、このような赦しと救いの恵みがあふれ出るのです。
神様は、ダビデが大きな罪を犯すことを知っています。ですから、ダビデが神の家を建てるのではなく、「わたしがあなたの家を建てるのだ」とおっしゃいました。なんという恵みでしょうか。
人はしばしばこう考えます。
救われるために何をしなければならないのだろうか?
神に受け入れられるために、どれほどの善行をすればのか?
どれだけ祈れば良いのか?
どれだけの物や財をささげれば良いのか?
このように考えるかも知れません。しかし、「あなたの努力ではなく、わたしの愛があなたを救うのだ」と主はおっしゃるのです。
罪に汚れた私たちが神の要求を自力で満たすことはできません。そもそも、善行をするために必要な「体」も、祈ることのできる心や唇も、所有している財産も、すべて、神様からいただいたものです。人間が神の住まいを作ってさしあげるのではなく、神が人に家を与え、糧を与え、働けるように健康を与え、必要な一切を与え養ってくださるのです。
私が神様のために何かをして、何かを引き出すのではありません。神様の前にふさわしいことができないような罪深い私たちなのに、主はご自身で御子の犠牲を払って、恵みのゆえに救って下さったのです。
これを私たちは知る必要があるのです。ダビデは「はっ」としたことでしょう。「私は神に与える側ではなく、神から与えられる側であるのだ」と。
ですから、18節以降では、ダビデは「私は一体何者なのでしょう」と語り始めます。驚きと感謝に満ちています。
こうして、神の恵みに深く心動かされ、この恵に少しでも応えたいとの思いが聖霊によって与えられる時、私たちは本当の意味での礼拝や賛美、ささげ物ができるようになるでしょう。
頑張ったから愛されるのではなく、愛されているから頑張れるのです。
この愛があるから、その喜びのゆえに、自分も与える者とされていくのです。
先日、金先生ご夫妻がコンサートのご奉仕をしてくださいました。特に奥様のヒジュ姉はまだ40歳のお姉様をガンで天に送ったばかりでした。体調もすぐれない中での奉仕でした。かなり気が重かったでしょう。しかし、神様の御用のために喜んで奉仕してくださいました。一昨日、そのお二人からお便りが届きました。そこにはこうありました。「先日のコンサートでは、むしろ私たちのほうがみなさんから愛をたくさん頂きました。本当に心から感謝いたします。」と。神のため、教会のためにと思って奉仕した。しかし、むしろ、自分たちがそのご奉仕を通して、愛を受けることができたと言うのです。これは神様からの恵みでなくて何でしょうか。
私たちはいつもそうなのだと思います。「主のために」と思ってしたとしても、実に恵みを受けているのは、私たち自身なのだと気づかされます。私たち以上に、神様が何もかもを備え、より多く働いてくださっているのですよね。
この神の恵みに生きていくクリスマスでありたいのです!