*** 8/10(日)主日礼拝 説教概略 ***
教会に行くと(健全な教会であるならば)、私たちすべての人間には「罪」があると語られます。それは決して、心地の良いものではありません。いや、できればあまり触れないでおきたい話かもしれませんね。誰もが「いい人」ということにしておく方が明らかに平和です。
でも、それは一時的な平和。見せかけの平和です。神様は人を救いたい真実な方なので、ウソをついたり、お世辞を言ったりしません。救いたいので真実を伝えます。本当の友は、気を遣ってごますりません。主もあなたを愛しているので、「あなたはいい人で、少しも悪くないので、死後も安心してください!」とは言わないのです。だからこそ、聖書は信頼できます。
平然と私たちにこの真実を告げるのです。すなわち、神の前に正しい人は「一人もいない」、「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)と。そして、この罪の結果、その罪の病は滅びに至るのだと、遠慮なく事実を突きつけます。人を癒したいからです。「悔い改めて、キリストを信じ、神に会う用意をせよ!」と聖書は語ります。
キリストの十字架だけが、罪に対する完全な解決を与える「主の救いの道」だからです。キリストによって主の救いの道をともに知り続けていきましょう。
1.主の道を知る者がいない
神様の前に、人々は罪を犯し続けていました。それでも、預言者エレミヤは、神様に訴えたのではないでしょうか。かつて、アブラハムがソドムの町のために神様に必死に訴えたように。「神様、あなたは、正しい人がいくらかでもいるかも知れないのに、この国全体を滅ぼすのですか」。
今日の1節の神様のことばは、こうしたエレミヤへの神様の応答のように思われます。
1節 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。
ここにある「公正を行う、真実な者」は単数形です。つまり、「たった一人でも正しい人がいれば、全体を赦そう」ということです。たった一人見つければいい。通りを行き巡り、広場を捜し回ったことでしょう。しかし、誰一人見つけられなかったのです。主の道を知る者、その道に生きる正しい者は一人もいなかったのです。
エレミヤは「ああ・・・いないのか」と嘆きました。3節でこう言います。
3節 「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」
神様の目をもってしても、この民の中にわずかな真実さえ見い出せないのですか?それほどに、この民は腐敗しているのですか?と言うわけです。公正を行い、真実を求める者。本気で神の道を求めて悔い改める者。そういう人がいなかった。
神様はこれまでに、この民に幾度も愛のムチを与えてきました。それで数人でも、心から悔い改め本気で神様を求め、正しい日々を送る者がいればと願った。でも、見つけられない。私たちも、普段、自分の生活に忙しすぎて、「イエス様、あっちに行っておいてもらえますか」とイエス様を追い隅っこに追いやるのではないでしょうか。そして、神様の愛のムチ、つまりとても苦しい試練が起こると、その時だけは神様を必死に呼び求めます。本当に苦しかった時だけは、いくらか悔い改め、一瞬従順になったかも知れません。しかし、喉元過ぎると熱さを忘れます。時間が経つと、また、元の生活に戻り、神様を忘れていきます。これでは「痛みもしなかった」「懲らしめを拒んだ」と言われても仕方がありませんよね。
エレミヤはなんとか主の道を知る正しい者が他にいないかと知恵を絞ります。4-5節で。
4節 私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5節 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。 彼らなら、主の道も、 自分の神のさばきも知っているから」と。
エレミヤは、今度は身分の高い者、教養のある者たちの中で探そうと考えました。「彼らなら、聖書も学んでいるので、主の道も、 自分の神のさばきも知っているだろう!」と期待したのです。けれども、結果はどうでしょう。5節の最後にこうあります。「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」と。
これは神様に従うことを平然とやめていたという意味です。結局、身分の低い者も、高い者の中にも、一人も義なる者、主の道を知る者、神を恐れる者がいなかったのです。
ですので、7節の冒頭にこうあります。「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。」と。赦しようがないほど、人は自分の欲を愛し、神の正しい良い道、愛に生きる道を選ぼうとしなかったのです。いや、それどころか、11-12節を見ると、神を裏切り、主なる神様を否定し、造り主、愛の神様を空気のようにしてしまっていたと分かります。
「主は何もしない(できない)」と、まるでお飾りの偶像の神のように扱ったのです。
2.神を恐れる者がいない
22節に主なる神のことばとして、こう語られます。
22節 あなたがたは、わたしを恐れないのか。 ──主のことば── わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。
主は言われました。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。わたしの前で震えないのか。」と。
主の道を知る者とは、神を恐れる者です。神とそのさばきも恐れます。人には、健全な「恐れ」というものは必要です。その恐れのゆえに、身を慎み正しく生きようとするからです。厳しく叱られ、愛のムチを受け止めて、過ちを改めようと思えるからです。しかし、恐れも失っている民でした。世界の造り主なる神様は「海」という圧倒的なもの造りました。同時に、「砂」という地味な存在によって制御なさってもいます。海の力は強く、波は逆巻きとどろきます。しかし神様が定めた「砂浜」という境界で、私たちの生活の領域はいつも守っていただいているのです。このように力ある神、すべてを治める「神を恐れよ」と言うのです。
あなたは神様を恐れながら生きているでしょうか。恐れる心を失ってはいけません。24節でも、こうあります。
24節 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。
雨は降り過ぎても全く降らなくても大変です。どちらにしてもすべての生物は生きていけません。人はそのように「雨」一つ取っても、多すぎても、全くなくても生きられない。小さな弱い存在です。地球温暖化により、夏の最高気温があと5度上がったらどうでしょう。生きていられないのでは?と恐れます。温暖化はもう50年ぐらい前から、社会問題とされてきました。50年経っても進む一方に見えます。人は思うより「無力」なのです。
ならば、本来は、その小ささに見合った謙虚さが必要です。裸で何も持たず、自分の意志によらずに、この地に生また私たちなのです。生かされている存在なのです。それに比べて神様はいとも簡単に、全世界のすべてを24時間365日、完全に管理しておられる大いなる方なのです。地球と太陽の距離がほんの数%変わるだけで、地球の生物は死滅すると言われます。神様が完璧な距離を保っておられるのです。だから、神様を恐れ、謙虚に感謝して生きるべきなのに、それをしない。なんという傲慢でしょう。
25節 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。
神様が与えておられる良いもを、人の良く深い生き方が破壊し、得られなくしています。人は感謝して受け取れていません。あるのが「当たり前」とさえ考えるのです。「顔面革命」というお話があります。ある日、口が文句を言いました。「俺は一日中、顔の中で誰よりも動いているのに、なぜ一番下なのだ?俺の上の鼻なんて、においを嗅ぐだけじゃないか。」と。すると、鼻も言いました「確かに。だが、私の上の目は一日の多くの時間、布団をかぶって寝ているじゃないですか。私の穴は二つとも一日中開けっ放しです!」と。すると目も言いました。「確かに。ですが、私の上の眉毛は、それこそずっと横になって寝ているだけですわ。」 そこで、顔のパーツは順序を入れ換えました。口が一番上、次に鼻。穴は大切なので上に向けましょう。そして、目が来て、一番下が眉毛です。そこでスープを飲んだところ・・・。口が上にあるとよく見えず、こぼします。鼻の穴にスープが入り、くしゃみが出ました!?すると、眉毛が目の上にないので、すべて汁が目に入って大変です。
顔の作り一つ取っても、偶然ではなく意図的に最高に造られています。自分で選んでこの配列にしていないのです。生まれた時から、神様によって一番良い状態に造られていたのです。私たちは、裸で生まれ、裸で土に帰って行く存在です。この世界にあるものは、私たちが生み出したのではなく、すべて与えられたものです。感謝して受け取っているでしょうか。かえって、破壊して悔い改めず、お互いを傷つけ悲しませていないでしょうか。人の罪が自分の首を絞めているのです。
その深刻さは31節で明らかにされます。
31節 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」
これは「末期症状」に見えます。預言者は神の真実を語らず、祭司は自分勝手に民を支配しています。彼らはどちらも、信仰の模範となるべきリーダーたちです。彼らが堕落しているのです。ただ、そういう時こそ、一般信徒の出番でしょうか。ところがどうでしょう。なんと、その民はこれらの問題に全く盲目です。耳あたりのよい甘いことばで騙され、彼らの共犯者です。
これらを見る時、ローマ書3章10節の「義人はいない。一人もいない。」とのみことばを思わずにいられません。結局、だれ一人、神の道に正しく歩み続ける人はいないのです。人はみな、生まれながらに罪人なのだということです。では、救いはないのでしょうか。
もちろん、私たちは救いがあることを知っています。罪なき人は一人もいないからこそ、聖なる罪なきイエス様が私たちには必要なのです。神様は、人を救うために、ご自分の御子をこの地に遣わし、私たちの罪をイエス様にすべて負わせ、私たちの代わりに十字架で罰せられたのです。
キリストはこの世に来て、言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と。主の道を知る唯一の存在、主の道そのものなるキリストです。この方の身代わりの死によって、すべて信じる者の罪の赦し、救いが成し遂げられました。31節の最後に問いがあります。「結局(最終的に)、あなたがたはどうするのか?」と。
お世辞を言う必要もないので、聖書ははっきり言います。
「すべての人は罪人で、罪なきキリストの十字架があなたに必要だ」と。
引用元聖書
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