*** 11/26(水)祈祷会 説教概略 ***
今日の箇所で、パウロはこの手紙で初めて具体的な指針を命令形のかたちで伝えています。27節の最初にあります。「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」と。これこそパウロが、「神のみこころ」として読者たちに伝えたかったことだと言えます。
1.神の国の市民として生きる
では、キリストの福音にふさわしく生活するとは、どういうことを指すのでしょうか。「ふさわしい生活」とは、「市民としてのふさわしい生活」という意味を持っています。「ふさわしく」と訳されていることばは、3章20節の「国籍は天にあります」というときの、「国籍」と同じ語源のことばが用いられています。ですので、この文脈でそれら意図を意識するならば、キリストが治める神の国の市民としてふさわしく生活せよということです。
実は、当時のピリピはローマの植民地であり、彼らは「ローマ市民」としての規範にのっとって生きることが求められていたのです。ところがパウロがここで言うのは、ローマ市民としてローマに忠実に歩むのではなく、「神の国の市民」としてキリストの福音にこそ忠実に歩みなさいということなのです。私たちはそれぞれの国や自治体に属していますが、それよりも優先的に、天に国籍を持つ者、神の国に属する者なのです。
パウロはローマ書12章2節で「この世と調子を合わせてはいけません」と語っています。私たちの所属しているところは、この世の国々である前に、神の国なのです。クリスチャン、神の子という立場が第一なのです。だから、この世と調子を合わせないのです。ですから、キリストの福音にふさわしく生活するとは、この世の価値観よりも、神様のみこころを最優先して生きていくことです。この世の流れや調子に合わせるのではなく、神の国の基準に従って生活するということです。
しかもピリピ1章27節冒頭には、「ただ」ということばもありますね。英語でOnlyです。「一つだけ」という意味です。「ただ、この一つのことだけをしなさい」と伝えている。ということは、神の国の市民として、神の教えに従って生きていれば、それだけで十分だということです。
もちろん、私たちはそれぞれの国や地域に属し、そこで自分たちの使命や責任を果たす必要もあります。日本の法律やルールを破って良いという極端ではありません。しかし、私たちは、ただひたすらに神様の愛と真実に満ちたみこころに生きることに最大限の注意を払い、心を尽くしていれば、その後のことはついて来るのではないでしょうか。まさに、マタイ6章33節にあるように、神の国とその義を第一にするならば、それ以外の一切の必要は神様が与えてくださいます。
私たちはそもそも、小さな人間に過ぎません。そんなに器用ではありません。ですから、あれもこれも出来なくていい。マネジメントの父と呼ばれ、多くのキリスト教会に助言してきたピーター・ドラッカーも、二つも三つもではなく、一つの強みに集中することが良い結果を生むと言います。「優先順位が複数あるということは、優先事項がないようなもの」だとも言います。これはまさにイエス様がおっしゃったことで、本当に必要なことは一つだけです。それはただ、キリストの福音にまっすぐに生きることです。ここに心を注げば、それがどの世界でも良い生き方となるのではないでしょうか。
2.共同体として福音に生きる
それはまた、嬉しいことに、ひとりぼっちですることではありません。「生活しなさい」とのことばは、個人への命令ではありません。あなたがたは、そのように生活しなさいという複数形です。みんなで助け合って、福音にふさわしい生活を送るのです。「あなたがた」を意識して、27-28節全体を改めて読んでみましょう。
27節 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、
28節 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。
ここでは「あなたがた」と複数形を用いながら、彼らが霊においても心においても一つにされて、ともに戦えることで、反対者たちに脅かされることはない!と語られています。ひとりぼっちなら戦えないでしょう。しかし、みんなで福音に立って生きるなら、反対者の存在に脅かされる必要がなくなります。心強い励ましです。
逆に、私たちが内輪もめをしていたらどうでしょうか。私たちは弱くなり、内側から崩壊しますから、この世と悪魔の力にまんまとやられるでしょう。内輪もめして勝てるほど悪魔はちょろい相手ではないのです。ですから、私たちは神の国の同じ市民として、聖書の価値観に一緒になって立って、人の救いのために協力して福音を伝えるのです。
3.苦しみもまた恵みとして
そして、パウロは後半の29-30節では、「キリストを信じるゆえの苦しみ」についても触れています。
29節 あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。30節 かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。
私たちがキリストの福音にガッチリ立てば立つほど、確かにそれゆえに苦しむこともあるわけです。実際パウロは、同胞のユダヤ人たちから、ユダヤ主義を捨ててキリスト信仰に寝返ったと思われました。いや、今も、キリストの名のゆえに、何も悪いことをしてないのに牢獄に入れられているのです。その事実を知る者たちの中には、やはり「自分は牢に入れられるのはまっぴらごめんだ」と考える者たちもいたでしょう。しかし、パウロはここで29節にあるように、キリストのために苦しむことも「恵み」なのだと断言しています。自分の逮捕さえ用いられて人が救われている。人々が変えられている。パウロはそれを喜び、苦しみさえも決して無駄ではないと証ししているのです。
私たちは「教会開放日」を持っています。地域の子どもたちが教会に来るということも、決して簡単なことではありません。そして、0人の時はやはり悲しい。親が反対するゆえに来られないという話も耳にしたことがあります。イエス様の話を真剣に聞いてくれる子も決して多くはありません。そのような中で語り続ける事は本当に大変ですよね。また、ある時は来ていても、来られなくなることも当然あります。もちろん、また来られる時も来るのですが・・・。
そこに痛みや苦しみがゼロということはないのです。心が折れかけることは幾度もあります。
しかし、主はそのような時に私たちの心を引き上げてくれるような、様々な喜びや感動も確かに与えてくださる優しい方です。去年より今年と、先月より今月、彼らが変えられている姿を見る時、本当に慰められます。励まされるのです。その時は、苦しんだ分だけ、喜びも大きくされるように感じます。なんなら、より大きな感動のために、もっと苦しみを通った方がいいとさえ思うぐらいです。
引用元聖書
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