東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 創世記 3章14-15 「最初のクリスマス預言」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/12/02

創世記 3章14-15 「最初のクリスマス預言」

*** 11/30(日)主日礼拝 説教概略 ***

 最初の人、アダムとエバが神によって造られた時、本当に幸せで満ち足りていたはずでした。彼らが住まう「エデンの園」。そこは緑豊かなとても美しい園。動物たちとも人が仲良く暮らすことのできる楽園です。色とりどりの木々の実りが豊富にあって、自由に食べることも許されていました。何よりも自分たちを造り、愛してくださっている神様との日々の語らいは、いつも平安で、喜びに満ちたものでした。祝福が溢れていました。



 一体何が足らなかったのでしょう。何が不満だったのでしょう。蛇に扮したサタンのそそのかしに、あまりにもあっさりと惑わされてしまったのです。人はどれだけ欲張りなのでしょうか。

 

1.悪魔の誘惑と人の罪  

 二人はあらゆる実りを食べて良かったのです。しかし、たった一つだけ。たった一つだけ、「食べてはならない」と命じられた善悪の知識の実。それを食べないでいることが神への信頼でした。しかし、人は神に背きました。蛇の誘惑に流され食べてしまうのです。

 十分すぎるほど与えられていた99.9%では満足しないで、味わえなかったわずか0.1に固執してしまう愚かさではないでしょうか。99.9では足らず、100を求めてしまった。何の不自由もなかったはずです。本当に良いもので満ちていたはずです。なぜ、与えられている99.9を感謝せず、0.1に心奪われるのでしょう。サタンの誘惑のことばはこうでした。少し前の34-5節。

3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 

 このことばが人にとっての誘惑となりました。「神のようになれる」。それは自分の望み通りに何でもできる力を得ること完全になれること100になりたい。そう思ったら、彼らは食べるその手を止められなかった。昨日は結婚前カウンセリングをし、そこで夫婦関係を壊してしまうものについて伺った。すると「自分本位」という応答がありました。自分本位、自己中心。自分はこうしたい、自分が良ければ相手が悲しんでもいい。人は自分本位に神を悲しませる行動を取り、神に背きました。与えられているものに感謝できなかった。ないものを求めた。結果、神を悲しませる道を選んだ

 二人は神様から問われました。「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と。さあ、二人はどう答えたのでしょうか。

 アダムは言いました「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、私にくれたので、私は食べたのです」と。

 神様はエバに「あなたは何ということをしたのか」と言いました。

 すると、今度は女が言いました。「蛇が私を惑わしたので、私は食べたのです」と。

 これらのやり取りを聞いて、皆さんは何を思うでしょうか。人はどちらも「ごめんなさい」と言わなかったのです。アダムは、まるで神様が隣に置いてくれたエバが悪いかのように言う。ともすると、エバを与えた神様も悪いかのように!そしてエバは、蛇さえ誘惑しなければ食べることなんてなかったとでも言わんばかり。蛇のせい。「ごめんなさい」が言えないのです。

 私たちももう少し「ごめんなさい」が言えたら、もっと早く関係を回復し、幸いな交わりに歩めるのではないか。自分の子に「ごめんなさい」が言えているだろうか。自分の親に「ごめんなさい」が言えるだろうか。妻に夫に、兄弟に、友人に、上司に、部下に言えているだろうか。そして神様に、本当に「ごめんなさい」を言っているだろうか。神がくださっているもので満足せず背いたアダムとエバ。それゆえに、人は罪から来る様々な苦しみを負うことになりました

 そして、これらの罪の結果として、人は死ぬ存在となりました。肉体の死だけでなく、神との交わりの断絶という霊的な死です。神の愛がわからなくなり、孤独やむなしさ、罪悪感の日々を歩む者となってしまったのです。

 

2.悪魔への勝利 

 ところが神は、なお人を愛しています。深く愛しています。滅んで行く人を見て黙っていられるはずがありません。主はすぐに行動されました。まず、人を誘惑したサタンである蛇に電光石火でさばきを宣言しています。 

14節 神である主は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、 どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。

 神様は蛇に激怒し、さばきをすぐさま宣告なさったのです。そこに愛を感じます。私は、自分の代わりに怒ってくれる存在がある時に、すごく慰められるなと思うのです。

 昔、この教会でのことではない(全く別の場での出来事)ですが、私が少し侮辱を受ける出来事がありました。その際、それを横で見ていた妻が、普段あまり怒りを見せないのですが・・・その妻が私の代わりにすごく怒りを覚えてくれました。妻はその場では黙っていましたが、後に私に「本当に頭に来た」と言ってくれたのです。

 私のためにあの大人しい妻が本気で怒りを感じてくれている。それだけで十分でした。それだけで慰められ、心が穏やかになれました。自分の代わりに本気で誰かに怒ってくれる存在。それは他人事にせず、自分のことのように思うからこその怒りです。愛から来る怒りです。神様は、アダムとエバを誘惑したサタンに怒りを燃やされたのです。アダムとエバへの愛ゆえに。

 冷静に見ればこの時悪かったのは、罪を犯したアダムとエバです。悪魔は、誘惑をしましたが、罪を犯させてはいないのです。強制力はありません。人が自分で悪魔に従う道を選んだのです。しかし、それにも関わらず、神様はアダムとエバを愛するゆえに怒ってくれました。この愛を知っているでしょうか。 

14節 おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、 どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。 

 蛇に象徴される悪魔は神にのろわれ、一生腹ばいで歩きちりを食べるようにとされました。これらの表現は、それだけ貶める、辱められるという意味です。サタンの力は大きく制限されることになったのです。

 

3.救い主による勝利の預言  

 神様はサタンに制裁するだけではありませんでした。人類の救いを備えてくださったのです。勝利の道です。今日からアドベント、待降節と言います。救い主キリストが来る日を待ち望む時節です。そのアドベントは、まさに、この創世記3章からすでに始まっていることがわかります。 

15節 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」 

 サタンの子孫と女の子孫の間に「神が敵意を置く」と言われました。「子孫」という語は集合名詞なので、個人を指すことも全人類を指すと理解することも可能です。特にそれは、人類を代表するかたちで、マリアから生まれたイエス様を指すと理解できます。クリスマスに生まれたイエス様は、私たち人類の代表として悪魔と対峙し、勝利してくださるのです。だからお祝いの時です。イエス・キリストこそ、神でありながら母マリアから人の子として生まれ、サタンとその仲間を打ち破るお方でした。罪を犯し罪悪感にうなだれるアダムとエバの前で、神様はこのキリスト降誕の約束をはっきりと語られたのです

 絶望する二人、「してやったり」とほくそえむ蛇。彼らの前で、サタンへのさばきを宣告し、救いの約束を与えたのです。

 蛇であるサタンは「かかとに噛みつく」のが精一杯です。サタンのささやかな抵抗です。それは、キリストの十字架の苦難を意味するものでした。キリストがこの地上に来られ、すべての人を照らす光となられるそのとき、サタンも抵抗をするのです。人々を扇動し、キリストを苦しめました。キリストは罪のないお方であるのに、十字架刑という最も残忍な刑で殺されます。ただ、この十字架さえも、神様が人類の歴史のはじめから、預言なさっていたこと救いのみわざです。サタンの反抗もすべてお見通しで、それさえも用いて益となさる。サタンはキリストを苦しめたつもりかもしれません。けれど、キリストは自らの意志で、私たちの罪の赦しをなすために十字架に向かわれたのです

 かかとに噛み付く必死の抵抗さえも、たいした力を持ちませんでした。なぜなら、キリストは死からよみがえられたからです。この十字架の死と復活があなたの救いのみわざとなったのです!それは、人が犯した罪を赦すための十字架の死でした。キリストが私たちの代わりに罰を受け苦しめられたのです。そして、罪の結果の死に支配されることなく、復活されました。永遠のいのちによる勝利です。ですから、キリストにある者はもはや死んでも死なないのです。キリストを信じるすべての者もまた、サタンから致命傷を負わされることはありません。どんなに罪を犯そうとも、神の赦しはすべての罪に及びます!

 

 神様は、はるか昔から、あなたのために救いを用意していました。あなたはずっと愛されていたのです。生まれるよりずっと前から。あなたがどんな失敗をするかもすべて知った上であなたがいい、あなたでなければと。あなたを滅びへ誘う悪魔に、激しく怒ってくださり、あなたのために御子イエスを与えてくれたのです。

 私たちはもう、死を見ることはないのです。死は私たちを束縛しません。復活があるからです。神様は、人が罪を犯してしまい、神に背いたその時から、サタンへのさばきを宣言し、人の救いと勝利を与えてくださったのです。最初のクリスマス預言がここになされたのです。ですから、私たちも罪を認め「神様ごめんなさい。そして、私のために十字架で苦しんでくださり、ありがとう」と、主のもとに行こうではありませんか。



引用元聖書
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