*** 12/3(水)祈祷会 説教概略 ***
妻の祖父が牧師でありましたが、そのメッセージ音声をだいぶ昔に聞かせていただいたことがあります。私たちとは違う教団でありますし、石川県という地。また、当然ながら生きた時代も大きく異なります。ですから、色々な部分で違いがあります。
しかしそれであっても、その録音テープを聞きながら、同じキリストの福音が語られていることを知りました。「同じだ!」と思えたことがとても嬉しかったのです。
なぜ、同じだと思えたのでしょうか。それは、祖父が、自分の考える福音を語るのではなく、聖書が語る福音を語っていたからです。自分の心ではなく、キリストの心を語っていたからだと思うのです。キリスト者の一致とは、自分の心に人を合わせさせることでも、他人の考えに無理に合わせることでもない。聖書が語るところのキリストの心に皆が立って行くことによるのです。
1-2節をご覧ください。
1節 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2節 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
「ですから」と始まります。この直前に、私たちクリスチャンは、みんなでともにキリストの福音にふさわしく生きる時、反対者があっても脅かされず、苦しみがあっても勝利してともに喜べるということを教えられました。つまり、私たちが互いに福音にふさわしく生きるなら、そこに同じ愛の心や同じの思いを持って一致できるということです。
この福音にふさわしく生きるということを、より具体的に表現するならば、1節のことばになると言えるでしょう。実際にキリストの福音に生きているのなら、励ましや愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみがあるはずなのです。そして、このような者たちの集まりは、同じ愛の心をもった一致が築かれていくはずなのです。ですから、パウロは無理な要求をしているのではなく、神の国民とされているのだから、一致を保つ資格はもう与えられているという前提で話しています。その通りの実を結びなさいとパウロは言うのです。
そうして「私の喜びを満たしてください」と彼は言います。
既にお話したように、彼は牢屋にいました。彼を苦しめるキリスト者もいました。そういう中で、ピリピの教会は、どうしたらパウロ先生の励ましになるだろうかと考えたのではないでしょうか。それは、パウロへの贈り物をすることではありませんでした。党派心を持つ者たちと戦うことでもありませんでした。ピリピのクリスチャンたちが、福音に堅く立って、互いに愛し合って同じ思い、同じ愛で歩む姿こそが、パウロにとって最高のプレゼントだったのです。何よりも大きな励まし、喜びだったのです。私も4人の子の父です。父親として何が嬉しいだろうかと改めて考えました。彼らが贈り物をくれること、感謝してくれることももちろん嬉しい。けれども、何よりも子どもたちが、主イエス様から離れずに歩み、本当に祝福されて幸せいっぱいに歩んでくれることが一番嬉しいと思いました。
パウロは、ピリピの教会の中にも、様々な争いや対立が少なからずあることを知っていたのでしょう。ですから「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」と懇願するのです。
ただし、ここにある一致については、正しく理解する必要があります。「思いを一つに」といったことばを聞くと、私たちは大抵、無意識のうちに自分と同じ考えになることを期待してしまいます。自分の考えや価値観が正義となり、それと同じになることこそ、同じ心、同じ思いになることだと考えがちです。自分本位なのです。しかし、それは違いますよね。また、相手に無理に合わせることでもありません。では、思いを一つにとはどういうことでしょう。それは、「キリストのみ思い」において一致することです。自分の考えや価値観の枠から出て。自分の常識の枠から出る必要があります。それぞれが、自分の枠を出て、キリストの心、キリストの価値観に立っていくことなのです。そこでしか一致はない。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
まず、利己的な思いからの解放を語っていますよね。利己的というのは、自分本位、自分都合中心です。それこそ自分の側に人々合わせさせることですよね。そして「虚栄心」と訳されたことばは、「自己陶酔的な栄光、うぬぼれ」を指しています。それは、詳しく言うと、実際の自分よりも、大きく立派に見せることです。力ある者でありたい、ほめられるすごい存在でいたいという欲望です。こうした自己中心的な思いや傲慢さから早く抜け出すことなしには、真の一致はないですよね。
私たちは自分を他の人より上の位置に置きたがります。そして上の位置に置くので、上から目線になり、さばいてしまうのです。ここでは、それをやめて「下から目線」になるように勧めているのです。そのためには、イエス様を見つめないといけません。イエス様のようにへりくだる必要があるからです。神である方が人となられた。しかも、一番小さな者として、一番貧しい低きところにお生まれになったのです。この方を見ましょう。
そしてまた、3節最後の「思いなさい」には、「計上する、カウントする」という意味があります。その意味を考慮するならば、他の人を、自分よりすぐれた側の人として数える(カウントする)ようにして尊敬を払うのだと言えます。そう「見なす」のです。それが、私たちが互いに愛し合うことでもあり、キリストにある一致への道なのです。
4節でも愛し合う交わりための助言がなされています。4節 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。 利己的な歩みをやめて、他の人々のことを顧みて、思いやりの心で歩むように。これは自分の幸いだけでなく、他の人々の利益や幸いにしっかりと心を配るようにとの教えです。「顧みなさい」というのは、「思いやり」を持ちなさいということです。隣人の幸せを求めるのです。
ご一緒に語られて参りました。私たちは自分の思いや自分の心を基準にせず、そこから出て行って、キリストの思い、キリストの心に立っていきませんか。その際に、へくだって、他の方々をよりすぐれた者であると思いましょう。彼らの幸いを願う思いやりに立ちたいのです。このように、知識だけではキリストの共同体は成長できません。立派な組織や建物があるだけでも豊かになりません。キリストの愛がこの共同体にしっかりと現わされる時、それが宣教の柱になります。引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
