東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ4章1-3節「愛によって結ばれる交わり」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/02/25

ピリピ4章1-3節「愛によって結ばれる交わり」

*** 2/25(水)祈祷会 説教概略 ***

 反対する人と対立して終わるのか、違いを尊重しながらともに歩むのか。そこには大きな違いが生まれます。倒れさせてしまうのか、立ち上がらせるのか。この違いも大きいでしょう。いずれの場合にも、愛がカギになっていると思うのです。みことばは、愛によって様々な対立があっても、ともに歩む交わりを教えています。それが教会の強みであり、教会の豊かさではないでしょうか。「愛によって結ばれる交わり」教えられて参りましょう。


1節をご覧ください。 
1節 ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。 

 この1節の冒頭は「ですから」という接続詞があります。それはおもに3章を指すと考えられますが、特に直前で、天に国籍がある者として、行いによらず、キリストを信じる信仰によって生きることが教えられていましたね。良い成果、良い結果を出せたからではない。ただ主が私たちを愛し、御子をくださった。それをただ信じるだけで、神の子とされた私たちなのです。

 そこを土台にして、パウロはピリピの兄姉に向かって「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と呼びかけました。「慕う」と訳されたことばには、「待ち望まれた」という意味があります。実際、ピリピのクリスチャンたちは、パウロが切に待ち望んで生まれた愛弟子でした。さらに「私の喜び、冠よ」と続けて彼らに呼びかけます。ピリピの兄姉たちの存在そのものを喜んでいるというメッセ―ジです。

 また、「冠」とは、スポーツ競技などで優勝した人にかぶせられる月桂樹などの「花の冠」を指すものです。この冠を得ることは、当時のスポーツ選手たちにとって、何よりの誇り、栄光でした。そして冠は一番目立つ頭にかぶります。つまり、ピリピのクリスチャンたちは、パウロにとって皆に対して誇りたい存在だったのです。英語で言うところの「I’m proud of you!」です。あなたは私の誇りだという表現。それはパウロの最大限の愛の表現と言えるでしょう。

 そして私たちはこの点がやや足りないのではないかと考えさせられます。日本では特に、昔は、自分の家族に対して愛をあまり伝えない文化がありました(中国やアジアの多くの国々もそうでしょうか)。

 明治時代、日本では「I love you」をどう訳すかに困ったと言われます。夏目漱石は、「今夜は月がきれいですね」と訳したとのエピソードが知られています。全く伝わらないでしょうね。でも、日本的という気もします。

 この愛を伝えない文化が、しばしば私たちの心の土台を不安定なものにしているのではないかとも思わされます。人はやはり、愛され認められ、受け入れられ信頼されて初めて、強くされるのではないでしょうか。私たちのアイデンティティの土台は、何があっても愛されているという確信です

 さて、パウロはこの1節では、最後にもう一度「愛する者たち」と繰り返します。面白くないですか?この節は、「主にあって堅く立ってください」という一言以外は、愛の呼びかけ、愛のメッセージなのです。愛している。あなたがたは大切な存在、私の喜びそのものだ!だから、主にあって堅く立って欲しいというメッセージです。私たちも主に愛されています。「神の子」という若い世代でよく親しまれている賛美曲にこうあります。「何が出来ても出来なくても、何を得ても失っても、ただ愛されている、天の父に、私は神の子」と。私たちも神の子として、まさに主にあって堅く立って参りたいのです。

 

その上で具体的に伝えておくべきことがあって、パウロは2-3節で語ります。

2節 ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。
3節 そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。

 ここでは二人の女性を名指しで勧めています。彼女達はピリピ教会で指導的な立場にあった二人と考えられています。ただ「同じ思いになってください」と勧めているので、恐らくこの二人の間に大きな確執があって、誰の目にも明らかなほどの事件があったのかも知れません。

 ただ、パウロはこの女性たちについても、決して攻撃的に非難してはいません。3節の後半の一文をご覧下さい。

この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。 

 パウロは彼女たちを、福音のために一緒に戦った「戦友」「同労者」と位置付けていることがわかります。彼女たちへの敬意や感謝を失わず、それでいて彼女たちの間の問題を少しでも改善したいと願っていることが伝わって来ます。

 そこでパウロは、3節にて「真の協力者」と言われる人物に、「彼女たちを助けてあげてください」と助力をお願いしていますね。この真の協力者が誰のことなのかは、正確にはわかりません。ただ、パウロからはとても信頼されている霊的なリーダーであると想像できます。そして、この協力者ということばは「シジグス」というギリシアですが、辞書によると人名として使われる場合もあったようです。もしかしたら「シジグス」という名前の人に、彼女たちの仲介をお願いしているということかも知れません。二人の間では難しい場合に、「イエス様のように仲介する人物、とりなす人」が非常に重要ですね。

 このようにパウロはピリピの教会を愛し、そこに集う者たちを大切に思い、彼らの幸いを願ってこの手紙を記したことが分かります。時にパウロは空気を読まず、誰にも流されない孤高の人と思われがちです。怒りっぽく厳しい人にも思えます。元がパリサイ派なので、そうした染みついたものがあったのでしょう。

 しかし、徐々に御霊によって変えられた面もあるでしょう。柔和さ細やかな配慮を主から与えられてきたのかも知れません。非常に繊細な配慮をしながら、人と人とを結び合わせていることが分かります。このように結びわせる仲介者がいないと、個々の賜物はバラバラのままで用いられないのです。

先日、協議会役員で話した際に、他教団で「賜物バンク」という取り組みをしていることを知りました。教団内の様々な賜物を持った方々をホームページに掲載して、お互いの教会の必要のためにマッチングできるシステムです。東村山の教会にも豊かな賜物を持った方々が多くいらっしゃいます。そうした賜物をぜひ、この教会以外でも生かしたいと願う人がいるならば、そうした仕組みは有効なのではと思ったのです。

 パウロは2000年ほど前に、そうした働きをしていたようにも思います。地域的に離れていながらも、人と人とを結び合わせて、良い協力の働きを作り出しました。私たちもパウロのように愛のうちに成長し、大切なひとりひとりに愛を現わす者でありたいと思います。また、異なる意見の者を切ってしまうのは簡単です。しかし、主にあって人と人との間に立って結び合わせる働きがなされるなら、より豊かな協力のわざが期待できるのではないでしょうか。他人事だと放置せず、少しでも他の兄姉たちが仲良くなれるように、結び合わせる愛のわざにも心を向けていきましょう。


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