*** 2/22(日)主日礼拝 説教概略 ***
誰もが遠回りせず、Happyなゴールにすぐに到達したいと考えます。しかしながら、真に賢い人は、そこに至るプロセスがどれほど重要であるかを知っています。私は若い頃、聖書は少し「まわりくどいな」と思ったことがありました。旧約聖書の律法時代を通らず、最初から完全な救いのわざである、イエス様の十字架という方法をなぜ採らなかったのかと思ったのです。
しかし、ガラテヤ書やローマ書、このヘブル書を学ぶならば、その旧約聖書の時代のプロセスが重要であったことに気づかされます。旧約の長い歴史を通じて、どの時代のどんなに立派な人も、律法を完全に守れる人はなく、神の前には誰もが罪人であること。そして、人の力ではそれをどうにもできないのだということを、歴史を通して分からせてくださる神のご計画でありました。
いきなりイエス様の救いのみわざが与えられれば、その救いの恵みの価値や尊さを誰も理解できなかったでしょう。私たちに十字架の必要性やその尊さをしっかり示すために、神様ご自身も苦しみながら旧約から新約へと時間をかけて下さったのです。キリストによる新しい救いの契約の恵みをともに教えられましょう。
1.なぜ、新しい契約が必要なのか(7-9節)
7-9節では、新しい契約の重要性を教えるために、古い契約と関連付けて語られています。
7節 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。
初めの契約には「欠け」「欠陥」がありました。ただしそれは、神の備えた契約に不備があったという意味ではありません。人間の側がこれらの律法の要求を満たすことができないほどに悪かったということです。それは8節の最初に、「神は人々の欠けを責めて」とあることからも分かります。8-9節をご覧ください。
8節 神は人々の欠けを責めて、こう言われました。「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。
9節 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。──主のことば──
9節では、神が手を握って、エジプトの奴隷状態から救い出した民の姿があります。神様のやさしいその手に引かれて脱出できたのに、彼らは荒野で不信仰になり神様に背いたのでした。9節最後にもこうありますね。「彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」。
大抵の場合、私たちは正しい事を知っています。間違っていることも知っています。しかし、分かってはいても出来ない、また継続できない自分を発見するのです。それが罪の性質です。コツコツ積み重ねた方がいいのに、遊んでしまいギリギリになって追い込まれます。人を傷つける言葉ではなく、人を強め育てる言葉を語ればいいのに、正しくない方をしてしまう。ある時は出来ます。調子のいい時、気分がいい時はできます。でも、その良いところにずっとは留まれないのです。
知識が足りないのではなく、心が取り扱われる必要があったのです。
外なる割礼を受けるのではなく、心に割礼を受け、内側から変えられていく必要があったのです。
こうして旧約時代に与えられた契約ではなく、第二の新しい契約が与えられたのです。それは、私たちの心を取り扱い、神との絶え間ない交わりの中にとどまらせてくれる恵みの契約でした。
2.新しい契約
心を取り扱う新しい契約の恵みについて3つの点から具体的に教えられましょう。
(1)第一に、新しい契約は、心に記される契約でした。
10節にこうあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」と。モーセが授かった古い契約は「石の板」に書かれました。一方、新しい契約は人の思いの中、心に書き記されるのです。それはキリストの御霊の働きによって、心の内側から変えられます。また、石の板ならばすぐに割れて壊れます。実際、モーセは石板を一度割ってしまいました。しかし、心に記されたものは誰にも奪うことができず、いつまでも留まるのではないでしょうか。イエス様を信じるすべての者の心には、キリストの御霊によって、こうして神の契約が記されるのです。
この御霊は、神のみこころを私たちに示し、キリストの心を分からせてくれるのです。私のためにいのちを懸けて愛してくれたイエス様。そのイエス様はこんな時にどう行動するだろうか。神様はどのように応じることを喜ばれるだろうか。そんな自発的な思いが、神様との心の対話の中で生まれるようにされるのです。これはとても嬉しいことです。それは預言者が神の悲しみを自分の悲しみとしたのと同じです。御霊がその思いを私たちの心に共有してくださるのです。ですから、外から命じられるのではなく、内側からの志をも主が立ててくださるのです。
(2)第二に、神を親しく知る契約でした。
10節の終わりから11節にかけてこうあります。
「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。」
キリストという十字架の架け橋のおかげで、私たちは神様と親密な親子のように、あるいは夫婦のように結び合わされたのです。ですからもはや、「主を知れ」と言って教えることはないとまで語られています。それはお勉強のようにして神様を知的に知るものではないからです。もはや、信じる者のうちに与えられた「キリストの心」があるので、24時間365日、どこでも主と親密な交わりができるのです。散歩をしながら、料理をしながら、仕事の合間であっても!もう孤独な瞬間はありません。なぜなら、神様はあなたから決して離れず、いつでもあなたと心と心で語らうことを喜んでくださるからです。
(3)第三に、完全な赦しの契約でした。
12節にこうあります。わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。 神様はあわれみのゆえに、キリストの十字架の犠牲を備え、信じる者の不義、汚れ、一切の罪を赦し、きよめてくださいました。それどころか、完全に赦したので「罪を思い起こさない」と宣言しておられます。
聖書のみことばは、私たちに「自分で頑張って自分を正しく保て」、「自分で自分を変えろ」とは言わないのです。人には出来ないことを十分に分からせるため、神様の方で苦しみを背負って忍耐深く待って下さいました。先週も預言者エレミヤの涙は、神の涙そのものでしたね。そして神様は、人が自分では変われないので、内側から変えてくださる新しい契約を与えられたのです。
もう一歩踏み込んで理解しましょう。実は、これらの箇所で語られてきた「契約」という語は、原語のギリシア語では「ディアセーケー」という言葉です。これはおもに「遺言」を現わす言葉なのです。実はギリシア語には他に、契約を意味する言葉が存在します。通常そちらが使われるのです。ところが意図的に「遺言」の意味を持つディアセーケーが使われます。なぜでしょうか。それは、神様が与える契約は普通の契約と異なり、遺言のように一方的に与えられるものだからです。受けるにふさわしくない者なのに、ただ愛するゆえに与えられる恵みのプレゼントなのです。これはgive and takeの契約ではなく、愛ゆえのgive and
giveなのです。
だから人間はそれを受け入れるのか、断るのかの二択です。旧約聖書を知れば知るほど、私たちは自分の努力では変われないと知ります。皆さんも様々な経験を通して、自分ではどうにもならない弱さ、変えることのできない欠けがあると気づくはずです。
「アメージング・グレイス」の作者ジョン・ニュートンは人身売買が悪いと知りながら、それを継続していた悪徳商人です。聖書の知識もあり、何が正しく、何が間違っているかは分かっていました。でも、彼はこの罪深い商売から足を洗うことが出来ませんでした。しかし、船旅中に大嵐に遭います。荒れ狂う波、吹き付ける嵐。船体は激しく損傷し浸水し始めました。彼は船に入ってくる水を、実に10時間近くも外にくみ出し続けました。しかし、むなしい努力に思えました。誰もが「もはやこれまでか」という死の予感の中にいたのです。
ジョンは死を感じながら、人生を振り返りました。この嵐は、罪深い生活への報いかも知れない。母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、神をあざ笑って奴隷商人をしているのです。自分のように罪深く神を神とも思わず、罪深い歩みを続けた者を、神はきっと赦してくれないだろう。人生のほとんどを、神を思わず歩んできたのです。そんな絶望的な思いの中、追い込まれた彼は無力で、ただ神に必死に祈るしかなかった。ところが、奇跡が起こります。しばらくして浸水が止まって来たのです!なんと嵐も静まり海が穏やかになって来ました。神が自分にあわれみの手を差し伸べてくださっている光景が彼の目に浮かびました。まさか、こんなに罪深い自分にも。こんな人でなしな自分にさえも。こんな自分が生かされたのは、本当に神の奇跡、深い恵みでしかあり得ない。
彼の人生はそこから大きく変わります。やがて牧師になり、アメージンググレイスが生まれるのです。自分では何も出来ないと極限に置かれた時、彼はただ神の恵みにすがり、救われたのです。相応しくない者への、驚くばかりの恵み、神の無償の愛でした。
哲学者フィロンはこう言いました。「神にふさわしい行為は、与えることであり、賢い人に相応しい行為は、受けることである」と。本当に賢い人は自分の無力さを知り、自分は神に与えたなどと一切言えない者であると知っているのです。give
and takeの契約なら私たちは得られません。神様に何も与えることができないからです。しかし、神様は出来ない私たちを知っているので、give
and giveで私たちを救って下さるのです。
長い歴史の中で、立派な神の人たちの誰ひとりとっても、自分で自分をきよくはできなかったのです。そのようなすべての人間に忍耐深く愛を示された神様です。この恵みを心にしっかり受け取り、主よ、無力な私をあなたにゆだねます!どうか内側からあなたが造り変えてくださいと祈ろうではありませんか。