東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書9章1-16節「偽りの民と涙の神」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2026/03/03

エレミヤ書9章1-16節「偽りの民と涙の神」

 *** 3/1(日)主日礼拝 説教概略 ***

 この世界で正直に生きることは、色々な意味で難しいことではないでしょうか。皆さんどうでしょう?友人関係の中でさえ、空気を読んで本音を隠しながら付き合うことがあるでしょう。また、圧力に屈して真実を言えない。不正や隠ぺいが溢れています。あるいは、意地を張ってしまうことで、本音を語れずすれ違ってしまう。あるのではないでしょうか。

 本当は、もっと素直に、正直に、大切な事を伝え合えたら変わるのに・・・そうは思わないでしょうか。


 なぜ、このような偽りだらけの世界になっているのでしょうか。聖書では、その原因は、真実なる神から離れた結果であると教えています。事実、神との親しい交わりの中にいたアダムとエバは、裸でも恥ずかしいと思わず、お互いにさらけ出して歩めていました。その頃は幸せでした。しかし、神に背いて離れて以来、偽り、ごまかし、隠す歩みが始まったのです。それは、人間社会にすぐに広まりました。本音を押し殺し、裏表を使い分け、陰口を言い、色々なものを隠して生きる社会となったのです。

実に、人間関係において私たちがいつも傷つき、悩むのは、まさに神から離れた罪の結果なのだと気づかされます。こうした偽りの民の姿に深く悲しんで涙し、救いの御手を伸ばしてくださる愛の神様がおられます。このお方のもとで真実な歩みを回復して参りましょう。

 

1.偽りの中に住む民  


1-2節を味わってみましょう。

1節 ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、 娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。2節 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。 彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。 

 強い嘆きが感じられますよね。「私の頭全体が水」で、「目が涙の泉であったなら」と語ります。泣いても泣いても泣き足りないほど、悲しみが深いのです。涙が枯れることなく泣き続けられるほどに、悲しんでいるということです。そして、それこそは神ご自身の嘆き、神ご自身の涙でした。2節では、悲しみのあまり、この民からもはやずっと離れてしまいたいほどであると続きます。

 一体何が原因だったのでしょうか。それは、偽りの中に住む民の姿でした。3-4節にこうあります。

3節 「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ ──主のことば── 4節 それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。 

 ここを味わうと、とても悲しい人間の姿が見えてきます。友人同士でも信頼しきれないのです。ウソ・偽りや裏表が少なからずある。「舌をつがえて偽りを放つ」という比喩もありますね。人はお互いに、口先から「偽り」という名の矢を放ち合っているかのようです。そして「弓矢」に例えていますから、それは刺さると大怪我をする、傷つくということでしょう。騙される時、人は深く傷つきます。信頼を裏切ってしまっても、裏切られても悲しく傷つくのです。自分を偽って生きることも、自分や友を傷つけているのですよね。

 心に正直に生きる大切さにも気づかされます。ところが、同じ3節には、「それは真実のゆえではない」ともありますが、これは「真実のために勇敢ではない」という訳も可能です。真実のために勇気を持って歩めないということ。この世界で真実や誠実に歩むことは、とても勇気が必要なのです。ですから、多くの人は長い物に巻かれ、正直には生きられないではないでしょうか。それが罪の悲しい現実でしょう。さらに5-6節では、このようにあります。

5節 彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。6節 あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む──主のことば。」 

 友人をだまし、真実を語らない。欺きのただ中に住んでいると語られています。彼らはまるで息を吐くように偽りを吐いているようです。少し先の8節でも、「口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む」とありますよね。

 神様は、この偽りだらけの民の悲惨な人間関係をとても悲しくご覧になっているのです。神様は愛する子が深く傷つけ合い、奪い合っている姿をとてつもなく悲しんでおられるのです。なぜ、この民はこんなにも偽りだらけになったのでしょうか。それは既にお伝えしたように、神から離れたからです。神様から離れれば離れるほど、偽りが増していきます。なぜなら、悪魔のニックネームは「偽りの父」だからです。真実な神から離れれば、偽りの父・悪魔へと近づくばかりです。そして、悪魔のしもべになっていくならば、その結末は自ずと知れています。15-16節です。

15  それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。16  彼らも先祖も知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶ち滅ぼす。」 

 

2.救いのために神がなさること  


神様は深い悲しみの中で涙しながら、何とかしてこの民を助けたい、救いたいと切に願い御手を差し伸べておられるのです。

① 試練を通して練り直す  7節にこうあります。

7節 それゆえ、万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らを精錬して試す。いったい、娘であるわたしの民に対してほかに何ができるだろうか。 

 何度注意し、何度警告しても尚罪と偽りの中に住む民に、何ができるだろうかと苦悩される様子を示します。そこで言われていることは、彼らを「精錬して試す」ということでした。それは例えば、銀などを一度高温で溶かし、純粋な銀だけを残す工程を指します。それは、愛するこの民のすべてが悪いわけではないことを意味します。彼らは神に造られ、愛されて育てられている人間です。私たちの中にある純粋な良いものも神は知っておられるのです。

ですから、不純なものを取り除いて、神様がデザインされた本来の私たちを取り出したいのです。そのためには、熱い炎で鍛えられる、つまり試練を通らされる必要があります。一度倒れさせるとはそういう事です。神様の愛のムチ、涙の叱責です。9-10節にあるように、主は彼らを罰し、その町々を荒れ果てさせ、住む者もいないようにされるのです。ただし、神のさばき=滅ぼすためではなく「精錬」するためだということを見失ってはいけません。罪や汚れを取り除いて、純粋な良いものを残そうとされるのです。


② そうして、神を知るようになること  

 神から離れたゆえに、ウソ偽り、悪に悪を重ねるようになったのですから、神に立ち返ることこそ、回復の道だと分かります。3節後半にこうありました。「悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ」と。そして6節の最後にもこうあります「あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む」と。いずれも、真実な神様を知らない、知ろうとしないゆえに、偽りや悪の中にとどまってしまったのだと分かります。

愛する子たちが、親である「わたしを知らない」。それゆえに真実ではなく、偽りの中に身を置き続けたのです。あるいは、13-14節にもこうあります。

13  主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、14  彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。 

 真実を知らない、神を知らないということは、なんと不幸でしょう。神の教えを捨て、神の声に聞き従わなかった、それどころか偽りの神、邪悪な偶像を追い求めた。これが原因で、人間同士が偽りに歩み、互いに傷つけ合うようになってしまったのです。ですから、神様はご自身に立ち返り、わたしを知る者となって欲しいと切に願っておられます。

 偽りの民となった人間は、涙の神を見て立ち返る必要があります。偽りが大切な人々を傷つけ悲しませるものだからです。もう少し飾らず、格好つけず、強がらず、良く見せようとせず、ありのままの自分で歩んでいきたいと思いませんか。イエス様は真実な方でした。イエス様のもとには、罪深い者たち、社会に居場所のない者、見下されている者、弱い者たちが沢山集まりました。イエス様の隣が安心で、どんなに汚れていても蔑まれず、ただ愛され受け入れられました。そのままの自分でいることが出来たからでしょう。

 イエス様は一切飾らず、意地を張らず、強がりません。鎧を着こまず、スキだらけで、自己防衛をされない。だから、一緒にいてトゲがなく、心を切り裂くような人格否定もされない。真実と誠実、恵みと愛が満ちていました。

この方が私たちの救い主です。この方が私の先生、私の兄、私の友です。ならば、私たちもそれに相応しい者にならせていただきたい。そう願いませんか。世間の目ばかりを気にし、ダサい人だと思われることに怯え、可哀そうだと見られることを極度に恐れる。しかし、真実は異なります。あなたは全然可哀そうじゃない。主がこんなにも愛して大切に思って下さっている。良き賜物に満ちている。ウソ偽りで武装して、隠し隠れて生きる必要などありません。神の目に尊いと言われているのですから。胸を張って歩んでいきませんか。素直に率直に正直に!

 私たちは主の民です。私たちを真実なご自身との交わりに回復させたいと、主は涙ながらに訴え、御子イエス様を遣わして下さったのです。神の真実に立ち帰りませんか。結婚式では、正直で率直なお祝いの言葉、お手紙が胸を打ちました。やはり、人は偽りや見せかけでは感動せず、心惹かれないのです。見せかけの道徳的なキリスト教ではなく、本当に純粋な愛に心惹かれるのです。私たちも、ますますキリストにあって素直に、正直に歩んで参りましょう。お互いの交わりが真実な良いものとなりますように。真実なる神との交わりを絶やさず歩みましょう。

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *