東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ4章4-7節「神の平安によって心を守る」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/03/13

ピリピ4章4-7節「神の平安によって心を守る」

*** 3/11(水)祈祷会 説教概略 ***

 今日のみことばには「喜び」や「寛容な心」というワードが出てきます。それはクリスチャンの特徴であり、証しになるものです。ところが、喜びや寛容な心は、それなりに心に余裕がある時には保てますが、忙しくなり、疲れてイライラすると、いとも簡単に失われてしまうのです。クリスチャンの特徴なのに、簡単に失われるのはとても残念です。では、どうしたら良いのでしょうか。


 その答えが今日のみことばにあります。それは、思い煩わずに、いつでも神様に祈り求める時、神の平安によってこれらをしっかり保てるということです。神の平安が私たちの心や思いを守ってくれるのです!


 4節にこうあります。

 4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 

 最後に伝えたいメッセージの中心に「主にあって喜びなさい」という教えがありました。しかも、「いつも」という言葉があります。「いつも」と入ると、その意味合いは大きく変化します。つまり、喜べる時だけ喜ぶのではなく、喜べないように思える時でさえも、主にあって喜びなさいと教えられているのです。それは、環境や状況、タイミングといった外的な理由に何ら影響されない喜びだということです。

 これがこの世の喜びとの大きな違いです。

 特に、ピリピという町はローマの植民地でした。迫害を受けて来た人々です。その境遇から考えれば喜びがたい環境だったでしょう。特にパウロは、牢獄の中でしたね。ですから、置かれた境遇に関係なく喜べる道をここで示しているのです。その道とはどのような道でしょうか。ここに「主にあって喜びなさい」とありました。やはり重要なのは「主にあって」ということばです。主の道です。つまり、喜びをくださるのは主ご自身なのです。クリスチャン生活が喜びにあふれるのは、その中心である主である神様が、私たちを絶えず喜ばせてくださるからなのです。主を喜ぶ道とも言えます。


 この喜びとともに、キリスト者には「寛容な心」も与えられています。

5あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

 この「寛容な心」とは、余裕のある穏やかな心、あるいは、人に対して温かなやさしい姿勢ことです。裁判用語として使われる場合には、「厳密な正義よりも、温情をもって扱う態度」を指します。様々な心を苛立たせる出来事があっても、喜びや感謝を失わず、穏やかな心で人と接する姿です。そして、これが「すべての人に知られるようにしなさい」と命じられています。「すべての人」ですから、嫌いな人、苦手な人、良く知らない人に対しても。あるいは、迫害されてさえも・・・です。これは、ピリピのクリスチャンにとって、心に刺さるメッセージだったのではないでしょうか。

 しかし、これこそ教会の強み、魅力でしょう。これこそ、イキイキ・プロジェクトです。様々な困難があっても主にあって喜び、穏やかな心で生きる。輝くクリスチャンとして生きるということです。

 5節最後に「主は近いのです」とあります。「主の再臨の日は近い」という時間的な近さなのか、あるいは、「主はすぐ近くにおられる」という空間的な近さなのか、解釈が分かれます。しかし、「主の日」とは言っていないので、「主はあなたのすぐ隣で、ご覧になっておられるのです」といった意味の方が自然に思われます。

 主イエス様がすぐ隣にいるのに、怒ったり悲しんだりしてばかりでは、申し訳ない。主が隣にいるのだから、喜びにあふれ、イエス様の寛容さ、穏やかさを横で感じながら、私たちもそのように歩みたいのです。

 それでも尚、いつも喜びにあふれ、寛容な心を保つことは、とても難しいことではないでしょうか。一時的には出来るのです。機嫌がいい時、調子がいい時はできる。でも、疲れて余裕がなくなると、出来なくなります。それで6節にこのように助言があります。

6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 

 原文では、最初に「何も思い煩うな」とはっきりとした命令形で語られています。また、「思い煩う」という言葉には、心が二つ以上に分裂する、分かれるという意味があります。神様だけに心が向けられていれば、信頼のうちに安心して歩める。だから喜びも寛容さも保てるのです。しかし、心がそこから分裂して、神様以外のものに心の力が分散してしまう時、神様への信頼が失われ、見えなくなり、忙しさやストレスの海で溺れてしまうのです。ですから、思い煩う代わりに、まっすぐ神様に信頼して祈ることを教えているのです。

 また、その祈りには、感謝を添えることが教えられています。実は「感謝」こそ、神への信頼の証しなのです。感謝できている時は、主が見えている時なのです。良いものを神様が下さっているという感謝の心が、神様への信頼のバロメータだと言ったら良いでしょうか。そのような恵みを数えながら、感謝を添えて祈り、願い打ち明けていくのです。

 このように、心を分散させず、神様にしっかり心をフォーカスして祈る者はどうなるのでしょうか。その結果についても、明確に語られ励まされます。 

7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 

 「すべての理解を超えた神の平安」が与えられるのです。その神の平安が、私たちの心や思いをキリストにあって守ってくれるのです。これが私たちクリスチャンの強さの正体です。

 結婚式の直前、我が家に嵐がやってきました。次女が39度超えの発熱、嘔吐し、コロナ・インフルは陰性でしたが隔離。その週半ばに次男の大学入試。その入試の日の午後、結婚する本人長女も嘔吐、発熱、寝込む事態に。結婚式の3日前の話です。私も結婚式説教と同時に礼拝説教準備をしつつ、結婚式前日は神学校の評議員会。日曜は早朝礼拝も加わりました。

 出来るだけ、毎日コツコツ執筆してきた百万人の福音原稿も、ピタっと止まり全く進められず焦り。妻は病人の看病をしつつ次男の受験のケア、病人用に食事も別に作り、結婚式直前準備に追われていました。牧師も牧師夫人も倒れることは決して出来ない状況なので、意識して緊張感を保ちました。「余裕がない状況」を絵に描いたような日々でした。

 それでも幸いでした。生けるまことの神様がともにおられるからです。「主が一切を最善にしてくださる」、その確信の中で平安がありました。なぜか心が不思議に穏やかでした。その時に、式次第の中に見つけた聖書箇所の間違いさえも、「神の摂理」だと示され、むしろ説教で「人は間違う者なのだ、だからいつも赦し合おう」というメッセージを示されたのです。妻や長女に話すと二人でも笑いながら、「それ、めっちゃ、いいね!!」と笑いが起こりました。喜び、笑顔を主がいつも与えてくださるのです。

 私たち自身の心は弱く、傷つきやすく、また折れやすいものです。しかし、あらゆる場合に神様に祈りに聞かれる主がおられるのです。主は平安を与えられ、私たちの心と思いを守って下さるのです。疲れやイライラが寛容な心を失わせようとしてしまう。けれども、すべての理解を超えた神の平安が、喜びの心も穏やかな思いも守ってくれるのです。思い煩いの誘惑に負けず、ただ主に心を注ぎましょう。人の考えをはるかに超えるキリストにある平安が、私たちの心と思いを守ってくれるのですから!

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