*** 3/15(日)主日礼拝 説教概略 ***
教会は、どのような人々の集まりでしょうか。教会には様々な人が集まります。年齢も上は90代から、下はお母さんのお腹の中の子までいます。性格も趣味も立場や職業も違います。また外国の方々も多く加わってくださっています。そして皆、不完全な罪人です。
普通に考えれば、このような人たちが一つの共同体として共に歩むこと、しかも仲良く歩むことは、決して簡単なことではありませんよね。では、教会が教会として歩み続けるために、最も大切なことは何でしょうか。
主イエス様の愛に生きることです。イエス様の十字架の愛がなければ、私たちは出会うことさえありませんでした。私たちのすべての重荷を担って下さる愛です。この愛に立って互いの重荷を負い合う時、キリストの愛が教会に成就します。今日のみことばは、とてもシンプルな言葉で教えています。「互いの重荷を負い合いなさい」。2026年度の年間聖句として選ばせていただきました。このみことばに共に教えられて参りましょう。
1.重荷を負い合う共同体
教会は、過ちに陥った人を立ち返らせる愛に生きる交わりです。どうすれば良いと教えられているでしょうか。
1節 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
これも重荷を負い合うことの一部です。「正義感からその人を裁く」とは語られておらず、「柔和な心で」正すと語られています。では、柔和な心とはどのような心でしょうか。柔和とは「へりくだりの心」です。上から正す態度ではありません。「私は正しい、あなたは間違っている」ではなく、「私も同じように弱い者だ」と共に神の前に立とうとする姿勢です。実際、この節の最後にはこう語られています。「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と。つまり、「自分も同じように過ちを犯す者だ」という自覚を持ちながら、兄姉を助けるのです。ただし、これは人間の努力で得る性質ではありません。この書の5章では、柔和は御霊の実りとして教えられています。つまり、キリストの御霊によって培われる性質なのです。私たちの霊的成長度合いを示す性質とも言えます。このように過ちを柔和な心で正すことも、2節で語られている「重荷を負い合う」ことの具体例なのです。
2節 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
「重荷」ということばは、一人では背負いきれない重い荷物という意味があります。教会は、こうした重荷を担い合う共同体です。信仰生活において、私たちは様々な重荷を経験します。罪との戦い、家庭の問題、健康の問題、経済的な問題、心の悩みなど。一人では抱えきれないような重荷が多くあります。
その時、私たちはどうするのでしょうか。見て見ぬふりをするのでしょうか。「それはあなたの問題です」と突き放すのでしょうか。そうではありません。気にかけ声をかけるのです。祈るのです。共に泣き、共に支えるのです。ただ、重荷を負うことは決して簡単ではありません。時間も必要です。労力も必要です。経済的な犠牲が伴うこともあるでしょう。しかし、そのような具体的な愛が実践されるとき、教会の中に「キリストの愛」が現されイキイキとするのです。これが「キリストの律法」を成就することなのです。
2.重荷を負い合う際に気をつけるべきこと(3-5節)
私たちは、今日、互いに重荷を負い合う共同体となることを教えられています。しかし、その際に、注意すべきこともあるのです。3-5節より、注意すべき二つの点を教えられます。
(1)第一に、過ちを正すにも重荷を負うにも、優劣をつけないという点です。正す側、背負う側が偉いわけではないのです。誰もが間違い、誰もが重荷を負ってもらう存在です。お互い様です。そこにも柔和さが必要ですね。3節 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。 自分を立派な信仰者だと勘違いしないように教えられています。罪に陥った人を正したり、弱い人の重荷を負って差し上げたりする場合に、ついつい人はこう思いやすいのではないでしょうか。「私ならこんな過ちはしない」、「私はあの人より出来ている」と。私たちは、人に愛を示すべき場面でさえ、愛ではないものにすり替えてしまうのです。優越感を満たす機会、自己実現の機会としてしまう問題です。しかし、みことばは、本当の自分を欺いて立派な者だと思い込ませてはいけないと語ります。私たちは全員汚れた罪人、神の恵みなしには何者でもない者なのです。私も聖書を取ったら、ただのうるさいおじさんです。
4節 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。
まず自分自身をよく吟味する必要があります。ある牧師が中学生の頃に、初めて祈祷会に参加したそうです。その時、教会リーダーのお一人が、中学生の自分に、涙ながらに自分の失敗を分かち合ってくれたと言います。私のために祈って欲しいとお願いされました。中学生の前でも、自分の弱さを隠さず、「だから祈って欲しい」と伝え頭を下げる姿。その姿に深い感動を覚えたと言います。そして、このような姿を見た若い人たちが、次々と神様に仕える人になっていったのです。これこそ、1節にあった「柔和な心」ではないでしょうか。誰かを指導する時、私たち自身も、何か自分は出来ているかのような思い込みを持つことがあるでしょう。しかし、誰かを指導する時こそ、自分を丁寧に吟味する時なのだと教えられるのです。
(2)第二に、重荷を負ってもらう際、それは自分の重荷を無責任に放棄することではないということです。私たちには、自分にしか負えない大切な責任もあるのです。
5節 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。
例えば、罪を犯した際に、「あなたのせいで罪を犯したのです」と他人のせいにすべきではありませんよね。その罪の責任はその人自身がまず負うものです。ですから、重荷を負い合いなさいとあり、その罪の結果を一緒に担ってくれる方があったとしても、それは決して当たり前ではないということです。負って下さる兄姉がいらっしゃることは、本当に本当にありがたいことなのです。それを忘れてはいけません。その証拠に、実は2節の「重荷」とこの5節の「重荷」は異なる語が使われています。2節のことばは、一人では負いきれない重い荷だとお話しました。しかし、5節では逆に、他人には譲渡できない自分が負うべき重荷という意味があります。2節は一緒に負えるもの、負うべきもの。しかし、この5節は、各自が負うべき責任として区別されているのです。
例えば、登山をする際、自分のリュックサックは自分で背負いますよね。しかし、山頂でテントを張って、一緒にご飯を食べようとなったら、それらの道具・器材は一人に負わせるものではなく、一緒に分担して担うべきではないでしょうか。また、ある人がケガをした場合には、仲間が代わりに荷物を持ち、体も支えるのです。それこそは2節の理解となるでしょう。しかし同時に、自分が負うべき責任まで人に押しつけてしまうなら、それは健全な姿ではありません。今日のみことばは、面倒だから「あなたが持ってよ」という無責任に負わせるようなことを教えていないのです。むしろ、支えてもらって当然ではなく、「ケガで負えない私の分を担ってくださって、本当に助かります!ありがとう!」と感謝の心で歩むことが大切だと分かります。誰かに助けてもらったとき、私たちはこう思うべきです。「私の分を担ってくださって本当にありがとうございます。」その感謝があるとき、教会の交わりは健全になります。そして、別の機会には、今度は自分が相手の重荷を負う側になろうとする姿勢を持ちたいのです。2節に「互いに」とあった通りです。
私は幾人もの先輩の先生方に助けていただいた経験があります。病の時に果物を送ってくださった方、疲れている時にディズニーの招待券を下さった方、奉仕お疲れ様とギフトカードを送ってくださった方、励ましのお電話を下さった方、親身に相談にのってくださった方など。それゆえに、私も後輩の先生方に何かしたいと思う者とされました。自分がしていただいて支えられたので、自分もしたいと。ただ、これらの先輩牧師たちもその先輩方に支えられたのであり、また元をたどればイエス様に負っていただいたのです。
実に、私たちが重荷を負い合うことができるのは、そもそも主イエスが私たちの重荷を負ってくださったからです。そして、私たちの最大の重荷は罪です。自分ではどうすることもできない重荷です。しかし主イエスは、その罪の重荷を十字架で背負ってくださいました。私たちは、その恵みによって赦された者です。だからこそ今度は、互いの重荷を負い合う者とされているのです。キリスト教会の交わりは重荷を一人で背負わせない交わりなのです。
主は今日も、私たちに語っておられます。主イエスは、私たちの罪という重荷を十字架で背負ってくださいました。私たちはその恵みによって赦された者です。だからこそ今度は、互いの重荷を負い合う者とされているのです。それこそが、キリストの律法、すなわち愛の教えを実現する道です。
教会とは、完全な人が集まる場所ではありません。弱さを持つ者が、互いに支え合う場所です。重荷を一人で背負わせない交わりです。ともに泣き、ともに笑い、ともに祈り合う交わり。そのような教会に、主はご自身の愛を豊かに現してくださいます。私たちの教会が重荷を負い合う「愛の共同体」となるよう、祈りながらこの愛に生きて参りましょう。