東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル9章1-10節「幕の先にある希望」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/03/08

ヘブル9章1-10節「幕の先にある希望」

*** 3/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

「関係者以外立入禁止」と書かれた場所を見たことがあるかと思います。サンライズの若い皆さんは、割とディズニーランド好きが多いようですが、あそこはまさに「Cast Members Only(関係者以外立ち入り禁止)」の場所がいくつもありますね。

 その部屋の中にはミッキーやプリンセスが待機していたりする。ただ、どんなにディズニーが好きでも、どんなチケットを持っていてもそこには入れないでしょう。しかし、もし、ディズニーのオーナーがこう言ったらどうでしょうか。あなたを特別にご招待します。いつでも、その中に自由においでください」と。



 あるいは、皆さんが大好きなアーティストの楽屋に、特別に招待され、「いつでも自由に入っていいですよ」と言われたらどうでしょうか。こんなに嬉しいことはないでしょう。

 旧約聖書の時代にも、「入ることのできない場所」がありました。それが、今日出てくる幕の向こう側です。神殿には二つの部屋がありました。祭司たちが日常的に奉仕していた「聖所」と呼ばれる部屋と、その奥にある「至聖所」という部屋です。この至聖所は、普通の人はもちろん、祭司でさえ入ることができませんでした。入れるのは大祭司ただ一人。それも年に一度だけ。慎重な手続きも必要でした。「幕」がかかっていて、中を覗くことさえできないのです。神の聖なる臨在の場だからです。

 旧約時代の礼拝は、その構造によってある真理を示していました。それは、「神と人との間には隔たりがある」という事です。人が神に近づきたいと願っても、罪の汚れゆえに自由に近づくことができない現実です。ところが「幕」は閉ざされるためだけにあるのではない。「開かれるもの」でもあります。神様は、仕切りの垂れ幕を長い間閉ざすことで、その中に入れることがどれほど喜ばしい価値あることであるかを示しました。

 旧約時代にずっと閉ざされていた幕は、キリストの十字架によって開かれたのです! 罪赦され、すべてのクリスチャンが幕の先へと入る者とされました。幕の先にこそ真の希望、真の喜びが待っていたのです。神はあなたを幕の先へと招待されています。そこにキリストの尊い犠牲を知り、この恵みを喜びましょう。

 

1.近くて遠い聖なる神の臨在

 1-5節までは、幕屋や神殿における構造について触れられています。なぜ、今更この構造に触れるのかと言えば、今お話ししたように、キリストの十字架の意味をより深く理解するためでした。まず、手前の聖所と呼ばれる一つ目の部屋について、著者は2節で語ります。ここには様々な礼拝器具が置かれ、祭司たちが日常的に出入りし、礼拝奉仕をする場でした。

 少し先の6節に、「祭司たちはいつも第一の幕屋に入って、礼拝を行います」とあります。ここにある「入って」と「行います」は、現在形で記され、反復行為を意識する表現でした。祭司たちは、手前の聖所では日常的に出入りして奉仕したのです。

 しかし、ここはまだ神の臨在の間ではありませんでした。そして、祭司たちが毎日奉仕していても、第二の幕の先「至聖所」には入れなかったのです。3節にありますように、第二の部屋は「垂れ幕」によって仕切られ立ち入り禁止だったのです。

 この垂れ幕の先こそが、神様のおられる場所(臨在される聖なる部屋)という構造でした。この幕によって、アクセス制限がかけられ、入ることが出来ませんでした。その部屋には神がおられ、恵みと祝福が溢れているのに、人はそこへ自由に近づくことができなかったのです。

 そして人々はこの構造によって神の圧倒的な聖さを学び、また同時に自分たちの罪深さを知らされたのです。自分の心の汚れ、エゴ、神をも恐れない不遜な心。これらを放置したままでは、この幕の先に入れなかったのです。7節にこうあります。 

7節 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。 

 この奥の部屋には年に一度だけ、「贖いの日」という特別な日のみ、しかも大祭司だけが適切な手続きをもって入ることがようやく許されました。

 もう少し整理しましょう。神殿や幕屋の外庭の部分には一般の人が入ることが出来ました。しかし、神殿や幕屋の外側の部屋、聖所に入れるのは祭司だけでした。さらに、その奥にある至聖所まで入るには、祭司の中でも大祭司だけが年に一度だけ入ることが出来ました。さらに犠牲と慎重な手続きをも必要としました。つまり、非常に高いハードルがそこにあったのです。それは聖なる神のもとに、罪ある者は安易に近づけず、見ることすら許されない現実であったと言えます。8節にはこうあります。

8  聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。

旧約時代の規定は、神との完全な交わりがまだ開かれていないことを、構造そのもので教えていたのです。人間が自分たちの正義を振りかざして、どんなに主張しても、やはり不完全でした。正しいと思い込んでいることさえ、誤解や勘違い、歪んだ正義であったということです。そこには、罪ある人間には決して超すことのできない隔たりがあったのです。

 

2.キリストという垂れ幕が与えられた

 しかし、この越すことのできないはずの隔たりを打ち破り、神の臨在の間への道を開いてくださったのがイエス・キリストなのです。御子キリストの十字架が、この垂れ幕を破り、いのちの道を開いてくださったのです。7節にありましたように、至聖所に入るには「犯した罪のために献げる血」が必要だったのです。

 旧約時代、この血は動物の血でした。しかし、それはやがて来られる神の子キリストの血潮を示すものでした。すべての時代の、あらゆる人の罪や汚れを赦すためには、動物の血ではなく、一つも罪のない聖なる神の御子イエス様の血が流される必要があったのです。イエス様は、あなたが行動や心で犯したあらゆる罪を赦すために、罪の罰をあなたに代わって十字架で受けて下さいました。垂れ幕は、何の犠牲もなく開かれたのではありません。尊い犠牲、代価が払われて初めて開かれたのです。

 こんなエピソードがあります。あるヤクザさんが、イエス様を信じるきっかけになった牧師の話があります。その牧師さんは、そのヤクザさんにこう言ったそうです。「あなたの頭が罪深いことをいっぱい考えたそのことのために、イエス様は頭に棘の冠をかぶって下さった。その手が犯した罪のために、その両手に釘を打たれてくれた。その足で、行ってはならないところに行ったそのために、その両足に釘を打たれた。その心にある罪のために、イエス様はその腹を槍で刺し通されてくださった。」と。聖書にそう書いてあるわけではありません。でも、イエス・キリストの十字架の犠牲を、自分自身のためなのだと受け止める姿勢はとても大切です。他人事にすべきではないのです。私たちの罪がイエス様を十字架につけたのです。ただ、この十字架の犠牲によって、まさに垂れ幕の先にある希望へと、信じる者は誰でも入る者とされたのです。

2ページほどめくっていただいて、1019-22節をご覧ください。そこに答えがあります。 

19節 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。20  イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。21  また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、22  心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 

 イエス様の血によって、大胆に聖所に入ることができるようにされたと分かります。福音書では、イエス様が十字架で死なれた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたと語られています。裂けた」ということは、その幕は永遠になくなったということです。代わりに、この20節にあるように、イエス様の肉体という垂れ幕がかけられ、イエス様を通して誰でも幕の先へ入って行けるようにされました。

 また、今日の9章の9-10節と比較していただきたいのです。 

9  この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。10  それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。 

 献げられた動物の犠牲も、ここにある通り「礼拝者の良心を完全なものにすることができない」のでした。それは、新しい秩序、つまりイエス様の救いが立てられる時までに課せられた、外的な規定に過ぎなかったのです。内側からきよめる力は、動物のいのちにはなかったのです。しかし、神の聖なる子羊イエス様が十字架で死なれたならば、誰であってもイエス様を通して、永遠にこの恵みの至聖所へと入れる特権を受けたのです。なんと幸いなことでしょうか。

 このように罪の重荷が取り除かれ、私たちは感謝の心で、大胆に積極的に神に仕えることができるようになりました。クリスチャンがどこまでも謙虚さや感謝を失わず、喜んで奉仕できる理由はここにあるのです。私たちは誰も、あの垂れ幕の先に入ることが出来なかった者です。どんなに努力しても、なお罪がある者です。しかし、神様が御子イエス様という尊い愛の犠牲をくださることで、ようやく幕が開かれたのです。私たちに何の手柄も自慢できることもありません。

神の御子の尊い犠牲によって、私たちはいつでも大胆に、神様の恵みの座に近づける者とされたのです。「神の子」とされ、「天のお父さま」と親しく祈る者とされたのです。そこには何の制限もありません。なんという恵みでしょうか。 

 

 今日も、神様はあなたに語っておられます。「あなたのために払われた十字架の犠牲と、そこにある恵みの大きさを知りなさい」と。「もはや、神殿の外に立っていないで、幕の外に立っていないで、キリストを通してわたしのもとに来なさい」と。ですから、垂れ幕越しでの交わりではなく、遠くにいる神様とせず、親しくお交わりし、ともに歩んで参りましょう。


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