東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱコリント4:16「朽ちることなき信仰」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/04/21

Ⅱコリント4:16「朽ちることなき信仰」

*** 4/19(日)主日礼拝 説教概略 ***

 キリスト信仰は都合の良いご利益信仰ではありません。苦しみや痛みをも、そこに神の良きご計画があると本気で信じて歩む信仰です。まさにヨブ記1章に「主は与え、主は取られる」とある通りです。神の主権を尊ぶのです。



 先日、敬愛する大先輩牧師の奥様が突然天に召され衝撃でした。いつもお元気な先生が本当に小さく肩を落としておられ、祈らされます。私も五十を過ぎて、難病を始め、いくつもの健康の課題を抱えています。先々週は夜間救急にもお世話になり(大したことはないのですが・・・)、漠然と「人は思ったより簡単に死ぬかも知れない」と思ったりしました。

 私たちのこの地上での日々には終わりがあります。誰もが年を取るし、病にもなるし、思わぬ事故もあります。体は経年劣化し、傷み衰えていくものです。誰もが例外なくです。

 だからこそ、朽ちない霊的ないのちを、この信仰によって与えられている尊さを、改めて思わされるのです。主のみことばは淀みなく私たちに語ります。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と。何があっても奪われない、朽ちて行かない霊的ないのち、このキリスト信仰が与えられていることは何と幸いでしょうか。

 

1. 落胆せずに信仰に生きる  

 まず「ですから、私たちは落胆しません」と語られています。ここに明確な断定があります。また現在形で記されていることから、それは継続・反復を意味しています。つまり、私たちは、今この瞬間だけでなく継続的にこの告白が出来る者なのです。もちろん、一時的に落ち込む事はあります。けれど、本当に絶望し心折れたままにはならない恵みがあるのです。

 これらを踏まえるならば、ここは「どのような状況の中にあっても、私たちは落胆したままにはならない」ということです。倒れることがあっても、立ち直れるのです。

 その根拠として、パウロは直前の14節で語ります。主イエスをよみがえらせた神の力が、私たちにも与えられているのだとだから、私たちは落胆したままにならないのです。さらにもう少し前の8-9節にもこうあります。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

 確かに苦しめられ、途方に暮れることがある。迫害され、あるいは倒されることもある。しかし、困り果てることはなく、本当の意味で行き詰まることはない。見捨てられることもなく、まして滅びることがないのです。それは、この朽ちることなきキリスト信仰のゆえです。この信仰によって、たましいの救いを得ているからです。ギリギリのところは通る。しかし主は、私たちを見捨てない、見放さない。そしてとこしえまで責任を持って見届けて下さるのです。

 それを補い保証するようにして、16節の後半にみことばが続きます。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と。「外なる人」とは肉体を指しています。パウロは私たちの「外なる人」が衰えることを否定していないのです。むしろ、先に触れましたように、病になったりケガをしたり、年を取ります。弱り衰えるのです。しかし、その一方で衰えないものがある。何でしょうか?内なる人です。キリストによって生かされているこのたましい、この信仰です。それゆえ、私たちも告白したい。「私たちは落胆しません」と。

 

2.内なる人は日々新たにされる  

 しかし、朽ちないだけではありません。内なる人は「日々新たにされる」とあるのです。それは、どういうことでしょうか。「新たにされる」ということばは、「上に向かって質が新しくされる」ことを意味する言葉です。つまり、「より優れた段階へと私たちの信仰やその霊性が新しくされていく」のです。

 少し先の517節をご覧いただけるでしょうか。それによれば「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」とあり、信じた瞬間に既に新しくされると分かります。しかし、1回新しくされて終わりではない。さらにその後も、日々豊かに新しくしていただけるのです。いつも言いますが、私たちの信仰はいつでも成長期なのです。しわが増えても、膝が痛くなっても、腰が曲がっても、その内なる人は日々新たにされ、あのイエス様のご人格へと変えられ、似せられていくのです。落胆している場合ではないですね。

実際、若い頃には見えなったことが、霊的に新しくされたゆえに見えるようになります。若い頃には見栄や外面を気にしてばかりいたけれど、もっと内側を美しくすることに心を注げるようになります。外なる人が衰えるからこそ、磨かれ輝いていく内なる信仰があるのです。

皆さん、聖書の有名な登場人物を考えて見て下さい。随分年を取ってから用いられている人物が少なくありません。アブラハムは75歳で旅に出ろと言われました。モーセは40歳では未熟だったので、80歳になるまで下積みをし、それから民を導きました。120歳まで目に力があったともあります。カレブは85歳の時に45年前と力は何ら変わらないと告白しました。90歳近くになって書いたと考えられるヨハネの手紙。その手紙は愛に満ちていました。多くの痛み悲しみ、失敗、挫折。それらを通りながらも、主が善いお方であると涙しながら味わってきた信仰者だからこそ、その言葉に優しさと強さと温かさ、深みと重みがあるのではないでしょうか。

私たちの教会も年配の方々が多くなりました。皆さん何かしら体の弱さ抱えています。でも、私はいつも、そういう皆さんの姿に励まされています。「東村山は若い人が多くていいですね」とよく言われます。そうです。でも、私は「年配の皆さんも多いからいいんです」と声を大にして言いたいのです。

子どもたちも、若い人たちも、見て欲しいのです。何十年と人生の嵐を歩み続けて来られたその信仰者の姿を。その姿があるから、若い世代が自分たちの未来に希望を持てるのです。その意味で、クリスチャンに引退はありません。神様は引退を用意していません。むしろ、天に召される直前にしかできない使命もあるのです。でも、まだまだ、直前じゃないですよ。ですから、「私たちは外なる人が衰えても、決して落胆しません」そう告白したいのです。

 

3.信仰は「自分だけのもの」で終わらない  

最後にお伝えしたいのは、信仰を「自分だけで完結させない」ということです。詩篇92にはこうあります。「彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります」と。青々と茂って、実を実らせるとはどういうことでしょう。その実を食べた人に笑顔をもたらします。その実から落ちた種は、また新しい木を生むのです。

今日のみことば直前15にもこうあります。すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。 主キリストが与えてくださったこの救い、この信仰は、自分だけが満たされて終わるものではありません。多くの人々に及んで感謝があふれ、神の栄光が現れるため与えられたのです。

自分だけで終わらせてはなりません。愛する者のために祈り、語り、その恵みを継承する使命があります。それもまた、自分だけでは終わらない朽ちない信仰ではないでしょうか。

『ゴンダールのやさしい光』という絵本があります。少し紹介します。エチオピアのゴンダールでは、酷い飢饉で、大勢が食べ物の配給を待っていました。そこに、ボランティアに行った青年の見た光景の実話です。この町にボロボロの布をまとった小さな少女が2人やって来ました。山を三つも越えたウォロの村から、食べ物を求めて三日も歩いて来たのです。彼女たちは言いました。「お父さんも弟も、食べ物がなくなって死にました。お母さんは、目が見えなくなりました。助けてください」。ところが、兵隊は「これはゴンダールの食べ物だ」と言って、銃で二人を押しのけました。それを見た青年は、後から2人を追いかけました。しかし寒い夜が訪れても、見つかりませんでした。心配しながら朝も探しに行くと、あるおじさんが教えてくれました。「その少女たちなら夕べはうちでご飯を食べたよ。昨日もらった食べ物も、少しだけど二人に分けたよ。お母さんにと喜んで持って帰ったよ」と言うのです。おじさんは「助けてあげた」なんて言いませんでした。自分たちたちさえ餓死するかも知れないのに・・・。彼はこう言うのです。「私も食べ物をもらってうれしかったからね。あの子たちにも、ただ同じようにしただけだよ」。青年はとても驚き、そしてふと、「ごめんなさい」と言いました。だれに向かってかわからないけれど、言いたかったのです。いつのまにかやさしい光が、まぶたの中にいっぱいあふれました。

もちろん今日の説教の主題は食べ物を分け与える話ではありません。しかし、自分の死が迫る中でも、大切な食べ物を分け与えるその愛こそ、私たちの信仰の中心にあるべきものです。私たちのために誰かが忍耐深く祈り、愛をもってこの信仰を伝えてくれたので、今ここにいるのです。時に拒まれ、時に反抗され、時に脅されても、諦めず福音を伝える人がいたのです。

 この信仰は、自分だけで大事に持つべきものではありません。それならば衰えていきます。けれど、みことばとキリストの愛に生きる時、それは朽ちない輝きを放つのです。今日も主はあなたに語っておられます。よみがえりのいのちが注がれたこの信仰です。私たちはどんな時にも落胆せず、もらって嬉しかったこの救いを、同じように大切な人たちに伝えて参りましょう。

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