東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇1篇1-6節「幸いな人」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/04/15

詩篇1篇1-6節「幸いな人」

*** 4/15(水)祈祷会 説教概略 ***

 本日から詩篇を学びます。詩篇は、全部で150篇と長篇ですが、「祈りと賛美の書」として、多くの人に親しまれています。詩篇の多くはダビデ、もしくは彼の後継者らの作品ですが、他の詩人たちの作品もあります。内容は賛美、感謝、嘆き、悔い改めなど、人間の様々な感情を神様に率直に表したものです。



 その意味で喜びの時にも苦しみの中でも、神に向かう道を示す書です。ですから、詩篇を味わう時、正直な心で神様と向き合う機会となり、神様との親密な交わりへと導かれていく書だと言えます。さて、皆さんは、幸せになりたいでしょうか。もちろん、なりたいですよね。ここでは、真に「幸いな人」とは何かが教えられています。その人は神のみ教えを喜び、そこにとどまる人なのです。

 

1節 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。 

 正しい幸いな人と、悪しき人が対比されています。正しい人とは、神のみ教えに生きる人であり、その人は神の祝福を受けて栄える幸いな人なのです。ここではまず、「悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」と語られていますね。「悪しき者のはかりごと」とは、不敬虔な者による神から離れさせる誘惑です。次の「罪人の道」とは、罪を習慣的に繰り返す生活。最後の「嘲る者の座」とは、もはや単に罪を犯すだけでなく、神に従う人々をバカにする側に属することです。

そして、ここをよく観察すると、「歩く」「立つ」「座る」という3種類の動作があると分かります。悪の道への3段階です。その動作の違いをイメージしてください。歩いているうちはまだフラフラ動いていますよね。とどまっていないので、戻りやすいでしょう。しかし、立ち止まってしまうとその悪の影響をより多く受け始めます。さらに、そこに座ってしまうなら、どうでしょうか。そこに居座って動かなくなり悪に染まってしまうでしょう。

罪や悪の道というのは、小さなパン種から始まり、いつの間にか大きく膨らんでしまうのです。ですから、私たちは小さな罪の誘惑のうちに立ち去り、そこに立ち止まったり、居座ったりしないようにしたいのです。悪いことに慣れてしまわないで、幸いな光の道に絶えず戻る者でありたいのです。

そのために主の教えを喜び、一日中その教えを握って歩むことです。2節です。

2節 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。

悪の道を喜びとしないで、主の道を喜びとする人になりましょう。この「喜びとする」とは、心満たされる深い喜びを指しています。また、この語は「楽しむ」と訳すことも可能です。主のみ教えを喜び楽しみながら生きる人です。しかし悪の道は、ほんの一瞬の喜びで、その奥には酷い苦しみをもたらす毒があります。

また、「いつでもどこでも」そのおしえを口ずさむ人だとあります。私たちはどういう場合に「口ずさむ」のでしょうか。まず、覚えていないと口ずさむことは出来ないですよね。また、嫌いな歌を口ずさむ人はいるでしょうか。口ずさむのは、主のみ教えが大好きになったからですね。そうでありたいのです。いつでも口をついて、主のみ教えが出てきてしまう人になりたい。この語には「思い巡らす」という意味もあるので、主の教えがいつも心にあって、楽しく思い巡らしながら生きていく人のことでしょう。これが正しい者の道であり、祝福され、幸せに歩める道なのです。

私たちは主の教えを喜び、楽しんでいるでしょうか。昼も夜も口ずさんでいるでしょうか。絞り出さないとみことばが出て来ない感じでしょうか。礼拝や祈祷会の時だけでなく、昼も夜も思い巡らし、あらゆる時に口にし、表現しているでしょうか。人との他愛もない交わりの中に、自然とみことばが口をついて出て来るような人になれたらと思うのです。その人と会話をしていると、いつの間にか聖書のみおしえを自然に聞くことになる。このように、日常にみことばが満ちていれば、「伝道しなければ!」と気負わずとも、いつの間にか福音が届けられていることになるのではないでしょうか。主のおしえにいつも留まる者でありたいのです。その人はどうなるでしょうか。3節にある通りです。

3  その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。 

 水が流れる場所のほとりに植えられた木は、いつでもその水で潤います。渇くことも枯れることも知りません。この揺るがぬ永続性は、クリスチャンの強さですよね。そして神の時には豊かな実りを生むのです。言い換えれば、ここにあるように「そのなすことはすべて栄える」ということです。

ここから連想されることの一つに、ヨセフ物語があります。創世記39:2-3 を開きましょう。

2節 主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。3彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。  

ヨセフは何をしても成功しました。栄えたのです。何をしても栄えてしまうとしたら、こんなにありがたいことはないですよね。では、その理由は何でしょうか。それは、主がともにおられ、主が成功させてくださったからなのです。これが最大の理由であり、唯一の理由です。これしかない。神の教えを喜び、いつもその教えを握りしめて歩むなら、ともにおられる神がその人をことごとく成功させて下さるのです。ただし、「成功」とは、人の考える成功ではありません。神の最善のわざのことです。ヨセフの成功も、奴隷とされたり、投獄されたりすることも含めての成功でした。ですから、しばしば私たちには、それが成功なのかどうかが、すぐには分からないでしょう。むしろ、道が閉ざされ、失敗したように見えることもあります。けれども、後になって「あれが最善だった」と、主が分からせて下さるのは、幸いなことです。

 

一方で悪しき人は、これとは正反対です。4節に「風が吹き飛ばす籾殻だ」とあります。「籾殻」とはどんなものでしょうか。中身もなく役に立たない殻のことで、価値がないものです。風であっという間に吹き飛ばされてしまう弱々しさ、安定性や永続性の欠如を示しています。悪しき人の歩みは不安定で長続きしないのです。その時は上手くいったように思えても、やがて多くを失い、その報いを受けることになります。悪いことや不正で得たものは、長くは留まりません。やがて失われます。しっかり根を張る神の人、主にある義人とはまるで違うのです。それゆえ、5節の結末が待っています。彼らは神の審判を前にして、滅びるしかありません。キリストという最高の仲介者(弁護士)を持たない人であるからです。イエス様とこのみ教えにとどまりましょう。

最後に、これらのまとめとして、6節が語られています。

6節 まことに 正しい者の道は主が知っておられ 悪しき者の道は滅び去る。

 主の教えを喜びとし、いつも口ずさんで歩む正しい人の道主に知られているとあります。「知る」と訳された「ヤーダー」という言葉は、意味の広がりのあることばです。それは、人格的な交わりの中で神が私たちを知っていてくださることであり、赤の他人ではないということです。むしろ主と親しい交わりの中に置かれ、大切に思われているのです。それはしばしば、神が契約の愛において選んで、守り導いてくださるという意味でも使われます。もう少し違う表現をするならば、「神様が愛するあなたとその人生を、責任をもって最後まで見届けてくださる」ということです。とても慰められますね。

主に知られている人生ほど、確かな人生はありません。神の目に正しい、幸いなこの道を歩んでいきましょう。

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