*** 4/12(日)主日礼拝 説教概略 ***
先週はイースター礼拝でした。死からよみがえり、生きておられる主との交わりが、私たちの心を励まし、感動させ、力を与えてくださることを教えられました。いのちなき宗教活動ではなく、主イエス様との心で語り合って歩むイキイキとした信仰です。
今日のテーマもその点で通じる部分があります。タイトルにある「むなしい神々」とは、造られた物を神とする問題です。太陽や月、星などの「造られた物(被造物)」を拝んだり、占いをしたりして啓示を得るのです。あるいは、人の手で造り出された木の像等、造り物の神々にお供え物をして機嫌を取ったりするのです。しかし、それらは造られた物に過ぎません。ですから、それはむなしい行為ではないでしょうか。
永遠に生きておられる力ある神様とは比べようもないのです。科学的に、あるいは論理的に冷静に考えれば、それらに人を幸せにする力や正義に基づいて公平にさばく力もありません。時間とともに朽ちていく物質そのものです。私たちは全知全能の生けるまことの神、主である方とともに歩みましょう!
1.異邦人の道を見習うな
1-5節では、異邦人のむなしい道を見習うなという神ご自身のことばが語られています。
2節 「主はこう言われる。諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな。諸国がそれらにうろたえても。
まず、異邦人が「天のしるしにうろたえても、あなたがたはうろたえるな」と語られています。特にバビロンでは、太陽や月や星、惑星の動き、日食・月食などの天体の現象を見て、「何かの災難のしるしだ!」と恐れるのです。いわゆる占いのようなものです。
もちろん、夜空の美しさ、流星群や日食・月食、そうしたものへの興味はあっていいのです。しかし、まことの神を知っているならば、それらは神様が造られた被造物だと知っているのです。私も満天の星空は大好きです。しかし、その圧倒的な夜空の広がり、多くの星々を見る時に、それら自体ではなく、それらすべて造られた神様の偉大さに感動するのです。宇宙から見れば本当にチリのように小さな地球。その地球の中でもさらに小さなチリに等しい私たちです。それなのに主は、この小さな者に心を留め、髪の毛一本一本まで知り尽くしてくださる。ご自分の御子まで与えて下さったのです。まさに、人とは一体何者でしょう!偉大なあなたがここまでしてくださるなんて!・・・と思うのです。
天の万象は、それ自体を拝むためではなく、
神を知るために神が与えてくださった物なのです。
3節では、天のしるしと同様に、木で造られたいのちなき偶像の神について語っています。
3節 国々の民の慣わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。
異邦人の偶像礼拝のならわしはむなしいと語られます。その神々は、木材を加工しただけの物質に過ぎません。いのちも力もないのです。4節では、これらの像を神々しく飾るために、金や銀で装飾する様子があります。美しく飾られた工芸品。確かにそれらに心を奪われるのも分かります。ただ、「ぐらつかないよう打ち付けられる」との表現があるように、倒れて壊れないように釘等で固定する必要があったのです。美しい見栄えがあっても、所詮自ら動くことも、倒れないようにすることも出来ない物質なのです。
5節では、それらはキュウリ畑の「かかし」と同じようなだと語られます。話せない、歩けない。だから人間が運んであげる。ただの物。木材、金属。冷静に考えれば信仰するに値しないのです。そこに根拠なき信仰を置いてしまう人の弱さでしょう。何かにすがりたいのです。しかし、5節にあるように、益だけでなく害を与えることさえ出来ない存在。それを信じるのは信仰の無駄遣いです。どうせ信じるなら、頼りになる裏切られない神様を信じるべきですよね。
さらに、少し先の8-9節にも目を留めましょう。この8-9節が5節までと違うのは、今度は預言者エレミヤのことばである点です。エレミヤも至って冷静に分析して語ります。これらの美しい像を造り上げる技術は巧みであるものの、冷静に事象を見つめるなら、間抜けで愚かな行為であることを冷静に指摘しています。空しい神々の訓戒・・・「それは木にすぎない」と言います。そして4節にあったように、金や銀で装飾して神秘的な輝きを表面上には持てるかも知れません。しかし、中身のないむなしい虚像なのです。輝く金も銀も、神が造られた物。ですから、それを造られた方に心を向けるべきなのです。
2.並ぶものなき生ける神
では、全世界を造られた生ける神様は、どのようなお方なのでしょうか。エレミヤは、1-5節で、主のことばを民に語っていましたが、彼自身の熱い思いが湧き上がってきました。自分が仕えている神の圧倒的ないのちの力をほめたたえずにはいられなくなったのです。6-7節です。
6節 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。7節 国々の王である方、あなたを恐れない者がいるでしょうか。そのことは、あなたにとっては当然のことです。まことに、国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、あなたに並ぶものはありません。
ここでエレミヤが賛美しているのは、神様の偉大さです。私たちは神の偉大さ(Greatness)にも十分に心を向ける必要があります。
しばしば、私たちは神の愛や恵みばかりに意識がいきます。もちろん、神様のご性質において愛や恵みは最も中心的で素晴らしいものです。みんな大好きです。しかし、そこにばかり留まってしまい、神様が力ある偉大な神であるという点をおろそかにすることは危険です。もし、私たちが日々の歩みの中で下を向いて弱々しく生きているのならば、それは神の偉大さを信じていないゆえかも知れません。その結果、弱々しい歩みしかできないという問題が起こり得ます。
しかし、神様は愛や恵み豊かな神であるだけでなく、とても力がある強い神様なのです。全知全能で何一つ出来ないことのない圧倒的な神です。
この神の力を本気で信じて生きるなら、私たちは必要以上に人やこの世のものを恐れなくて良いのです。
私たちの主の方が、はるかにずっとずっと強いからです。そして、この方があなたの味方なのです。どんな時にも決して見捨てない、見放さない神様が、あなたの味方なのです。
皆さんは、恐れている怖い相手はいるでしょうか。学校で強くて高圧的な先輩やクラスメートがいるでしょうか。職場の上司や同僚で、苦手で恐れてしまう相手がいるでしょうか。あるいは、私のことを恐れているでしょうか。
娘に言わせると、「パパはオーラがぶわぁっと出てるから、怖いと思う人はいると思うよ」とのこと。こんなに優しいのになぁと思うものの、人によっては感じるのかも知れません。しかし、いずれの人もただの人です。木で作られた偶像よりは強いかも知れません。話せるし、歩けるし、意地悪もできるでしょう。けれども、神様の前にはひと吹きで消し飛んでしまう小さな者なのです。
また、私たちは災害や病や死を恐れます。しかし、それらは私たちを神様から引き離せるでしょうか?私たちの名前を天の国籍名簿から削除できるでしょうか。いいえ、どんな力もこのたましいを神から引き離すことは出来ないのです。
主は私たちにこう言われるのです「あなたが怯え恐れているのは、わたしの力と偉大さを全然分かっていないからだ」と。
6節でエレミヤが神様をたたえているように、どの国の知恵者も、どんな権力者たちも、この神様と「並ぶような者はいない」のです。エレミヤはまだ若く、最初は権力者たちをとても恐れていました。弱い人です。けれども、苦しめられ、意地悪されても恐れず大胆に真理を語る者となりました。なぜでしょうか?それは、神様の偉大な力を信じていたからです。この力ある正義の神様に信頼しているからなのです。ですから、10節にこうあります。
10節 しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。
動けない運んでもらう必要のある偶像ではない。生きておられる神様です。力ある偉大なお方です。その怒りに地は震え、その憤りにどんな国であろうとも耐えられないとあります。それゆえ、エレミヤは11節で明確な勝利宣言をするように促すのです。
11節「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」
実はこの箇所だけ、ヘブル語ではなく、アラム語で語られています。アラム語は当時の国際共通語でした。つまり、この11節は、異邦人に対しても直接語りかけられているのでしょう。「あなたがたが造り出した天地を創造していない神は、この地上からやがて滅び消え去る存在なのだ」という勝利宣言です。そして、神の民にとっては、そうしたむなしい物にすがることから、明確に決別する宣言でもありました。私たちもむなしい罪深い誘いに対して明確な決別宣言をしたいのです。
ご一緒に語られて参りました。主は問われます。この世の価値観に惑わされ、むなしいものを拠り所にしてはいないかと。あなたがわたしの本当の力を知らないために、あなたはこの世のものに依存し、この世のものを恐れ、敗北者のような人生を送ってはいないか。それで一生終えるつもりなのか。「あなたが恐れ怯えているそれに、力あるこの神を信じて勝利せよ」と主は語られるのです。「恐れるな、わたしがあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの神だから」と主は今日も私たちに語っておられます。