東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ4章18-23節「大きな愛を込めて与えるとき」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/04/08

ピリピ4章18-23節「大きな愛を込めて与えるとき」

*** 4/8(水)祈祷会 説教概略 ***

 教会の今年度の聖句は、「互いの重荷を負い合いなさい」というものです。ピリピの教会はパウロたちの働きのために、自分たちにあるものを与えることによって、重荷の一部を負うことになりました。パウロもまた、彼らの手紙を通して神のみこころを伝え、霊的な恵みを与えることで、ピリピの人々の心を励まし、その重荷を軽く出来たでしょう。



 今日は、いよいよこの手紙の締めくくりです。パウロはピリピの兄姉たちの信仰を最後まで励ましています。特に、クリスチャンの交わりが「与え合う交わりであること」を、喜びをもって伝えているのがとても印象的です。18節でこうあります。 

18私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。 

 パウロは心も体も満たされていました。エパフロディトがピリピの教会からの宣教支援の贈り物を届けてくれたからでした。エパフロディト自身は病になり帰ることになりましたが、彼とピリピ教会の皆のおかげで、パウロは色々な意味で満ちあふれていると言います。 
 その説明として18節にこうあります。
それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です」と。

 これは宣教師であるパウロたちへの贈り物だったはずです。しかし、宣教師への支援は、神が喜んでくださる芳ばしい香りのささげ物なのだと分かるのです。素晴らしいことだと思いませんか。神様に直接献金したわけではなくとも、宣教のために、愛の動機で、誰かに何かを贈る時、それは受け取った方々が満たされるだけで終わらないのです。受け取った人々が満たされるとともに、それが同時に神様に喜ばれるささげ物となるのです。

 いや、それだけではないですよね。17節にはこうありました。

17私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。 

 与えれば与えるほどに、霊的口座に豊かな収入が加えられていくという事でした。そして霊的収穫だけでなく、物理的な必要までも神様はこれを通して与えてくださるお方なのです。パウロはそれを豊かに体験してきたので、よく知っていたのです。それで19節でこのように語っています。 

19また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。  

 与える側、贈り物をした側に対して、神様は栄光の富をもって豊かに与え、すべての必要を満たしてくださるのです。

 ではここで、少し整理をしましょう。こういうことになるのではないでしょうか。

 神のみこころに従って与える時、三つことが起こっているのです。

①第一に、与えられた側の人々は、愛の贈り物によってその必要が満たさればかりか、その愛や祈りによって、とても心や信仰がとても励まされるのです。

②第二に、神様もその献げる姿勢、与える姿勢をとても喜ばれ、その姿から芳ばしい香りのするささげ物をお受け取りになるのです。神様にも受け入れられ喜ばれます。

③第三に、与える側の人々も神様から霊的にも物理的にも祝福されて豊かになるのです。

 なんということでしょうか。神を信じる者が、神のみこころに従って与える者となる時、驚くべき祝福の連鎖が起こっていることが分かります。祝福が2倍、3倍に増え広がっていることが分かります。私たちはこの恵みに生かされているのです。

 昨日は、ある兄弟の神学校の入学式があり、夫婦で出席いたしました。本人はもちろん、ご両親から非常に感謝され恐縮でした。教会の皆さんに本当に良くしていただいたと、「くれぐれもよろしくお伝えください」と言っていただきました。

 ただ、実際は私たちも彼から多くを与えられてきました。彼の奉仕や証し、彼との交わりを通して多くの恵みをいただきました。するとどうなっているでしょうか。私たちの教会が彼に与えたものがあり、彼も私たちに与えてくれたものがあり、そして神様がそれらを喜ばれているので、皆が喜びにあふれ幸せになっているのです。与えたら与えられ、さらに神様も喜ばれ、その両者をさらに祝福して下さったのです。キリストを信じて、与える恵みに生きる者はなんと幸いなことでしょうか。

 与えたら与えた分だけ貧しくなるということは決してないのです。むしろ、今まで以上に豊かに与えられていき、もっと与えられる人になるのです。神様が下さる祝福は、神様を愛する人々には無限に開放されています。神の富は、隣人を愛する人々には、その扉が全開なのです。私たちのすべての必要なものを知っている神様は、霊的な面においても、経済的な面においても、あるいは精神的な面においても、必要を満たし、さらにまたあふれさせてくださる方なのです。これを信じて歩んで参りたいのです。

 ますます皆さんが祝福をお受けになれるように切に願います。

 パウロはこの後、20節から最後の挨拶を伝え、彼らの祝福を祈って終わっていきます。自分一人からではなく、自分の周囲にいる聖徒たち全員、また特にカイザルの家の者たちからと触れています。21-22節です。 

21キリスト・イエスにある聖徒の一人ひとりに、よろしく伝えてください。私と一緒にいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。22すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。  

 皇帝の家に属する者たちなのか、皇帝に仕える者たちなのか、詳細は分からないですが、皇帝と密接な関わりのある人々の中に、イエス様を信じる者たちが起こされていたことが分かります。大いなる宣教の実りが見えるようです。ピリピの兄弟姉妹たちの祈りと献金、その献身的な支援が、こうした実を結んでいることが想像できますよね。人の救いにつながっているのです。

 そして、多くを与えなければと気負うことはありません。小さな事でも愛を込めてすることが大切です。昨日の入学式で、学長の説教がありました。その中で心に響いたことばがありました。マザー・テレサのことばの引用でした。

私たちすべてが大きなことをできるわけではありません。しかし、小さなことを大きな愛をもって行うことはできます」と。

 私たちは何も大きなことをする必要はありません。また、そうそう大きなこと、歴史に残るような偉大なことが出来るわけではありません。けれども、小さなことを主の大いなる愛に立って行うことは出来るのです。誰かのためにする小さな愛のプレゼントを、大きな愛を込めて行えばいいのです。それを主は豊かに祝福されるのです。

 昨日引用されたわけではないですが、マザーはこのようにも言っています。「大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ愛を込めたかです」と。私たちはどうしても、世的な価値観で大きな事や数が多い事が良い事だと考えがちです。しかし、本当に大切なことは、小さな一つのことを、神と隣人を愛する心で丁寧に行うことではないでしょうか。小さな事に忠実であれと聖書が教えているのは、そういう意図ではないでしょうか。
そして、それならば私たちにもできますよね。

 特別なことや大きなことをする必要はありません。ただ、目の前の小さな一人に、大きな愛を与えることをいつも大切すれば、それで十分です。それを主は「芳ばしい香」として喜ばれ、そのささげ物を受け入れてくださるのです。そうして、それを何倍にもして、受ける者にも与える者にも増し加えてくださいます。

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