*** 6/14(日)主日礼拝 説教概略 ***
「デジタルタトゥ」という言葉があります。インターネット上に投稿された内容は、完全に消しきることが難しい。ゆえに長く残ってしまうということです。多くの人は心の中にも「消えない辛い記憶」を持っているのではないでしょうか。「あんなことをしなければよかった」「あの失敗さえなければ」と。まるで心に刻まれた「デジタルタトゥ」のようです。自分でも赦せず、社会からも赦されていないように思われる。
しかし、今日のみことばで、神様は驚くべきことを語られます。17節「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」。神様は、キリストの十字架によって赦した罪について、「もう思い起こさない」と宣言されたのです。ですから私たちは、神のもとに行くならば、完全に赦され前を向けるのです。今日、この「神の完全な赦し」について、聖書から教えられましょう。私たちはキリストによって前を向いて、やり直せるのです。
1.人にはできない罪の赦し
11節をご覧ください。
11節 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、
昔、旧約聖書の時代、祭司たちは毎日儀式をしました。「毎日立って」という表現がここで特徴的です。なぜ、毎日繰り返し同じ儀式をしたのかと言えば、人の罪を完全には除き去ることが出来なかったためです。ゆえに毎日、毎日、きよめの儀式を続ける必要があったのですよね。
実際、私たちはどうやって、自分の罪をきよめることが出来るでしょうか。過ちをなかったことに出来るのでしょうか。最近のスマホのように写真の不要な部分をさっと消せるでしょうか、難しいでしょう。誰かを傷つけても、謝りさえすれば、問題は万事解決でしょうか。確かに「もう、いいよ」と言ってもらえるかも知れませんが、傷つけた事実は残ります。
ですから、私たちは過去の過ちを引きずり、後悔し、思い出せば胸が痛むのです。聖書は、人間の努力だけではこの罪の問題は解決できないと教えるのです。なぜなら、問題は行動だけでなく、むしろ人の心にあるからです。出来事は過去になっても心に残る。言葉や行動だけを直しても、ふとした瞬間に心にあるものが出てしまうのです。草取りをする時、根っこから抜くようにと言われますよね。なぜならば、見える草ばかりを刈り取っても、またすぐ生えてしまうからです。同じように、罪の問題は、表面だけ変えても解決しないのです。だから人の力では難しいのです。
ところが12-13節に、この問題のための良き知らせが語られています。
12節 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、13節 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
キリストは、私たちの罪のために「一つのいけにえを献げた」とあります。14節にもこのようにありますね。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
この「一つのささげ物」とは何でしょうか。A5ランクの和牛でしょうか。キャビア・フォアグラ・トリュフの世界三大珍味セットでしょうか。そうではありません。
神の御子キリストご自身でした。聖なる神の御子、愛と真実に満ちたお方。この方が、私たちの罪をすべてその身に背負って、ご自分のいのちを犠牲にして、罪の赦しを成し遂げたのです。私たちを罪の檻から救い出すために、ご自分のいのちを身代金として払い、贖い出してくださいました。
これこそが、人の罪を赦し、そのさばきの際に無罪判決をもたらす完全な赦しです。明確な対比です。地上の祭司は「毎日立って」務めをしましたが、12節にあるようにキリストは、永遠に神の右の座に着いたのです。怠けているのではありません。働きが終わったから座ったのです。十字架の上の主イエスの七つのことばの一つに「完了した」というものがあります。そのみわざは完全、永遠です。ただ一度でOKです。だからもう座っているのです。しかし、赦されて終わりではありません、さらに良いものがある。
2.神は私たちの心を新しくされる
みことばは、聖霊がそれを教えてくれていると言います。15-16節です。
15節 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、16節 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と・・・
ここは、キリストの時代よりもずっと昔に書かれた、エレミヤ書31章33節のみことばの引用です。16節にある「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約」とは何でしょうか。その契約こそは、イエス・キリストの十字架による完全な救いの契約でした。その契約は、キリストの十字架を信じるだけで罪赦され、神の子とされる。
さらには、「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」とあるではありませんか。昔は「木の板」や「巻物」に記されていました。それを持っていないと、その保管場所に来ないと読めないものでした。しかし、キリストを信じたらどうなるのでしょうか?今や、聖霊によって、私たちのハートに、マインドに、たましいに、聖書のことばが深く刻まれるようになるのです。キリストの心・JESUS MINDが心に与えられる!文字としてのみ聖書を勉強するのではなく、主が聖霊によって分からせ、心にしっかりみことばを刻む込んでくださる!ハートで理解して歩めるようになった。心の中に神の教えが生きて、輝いて歩めるようにされたということです。
神のみこころに心から従って行動できるようにされました。ピリピ書では、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ」とあります。内側に働かれ、志を立てさせるのです。社会人時代に転職した際、二次試験は論文でした。テーマはあなたの「志」を書けというもの。私は聖書の無償の愛を、生涯を通して世界中の人々に伝える「志」を書きました。30倍以上の倍率でしたが、この信仰と志ゆえに、採用いただいたと後から伺いました。主が心にくださった愛の律法のゆえです。クリスチャンとは、単に外側や行いが立派な人ではない。内側から新しくされ、造り変えられ、結果として言葉や行いが変わっていくのです。「ルール」だけでは人の心は変わりません。「厳しい戒め」だけでは変わりません。一時的に行動を変えることはできたとしても、心の願いそのものは変えられないのです。
しかし、神は聖霊によって、信じる者に「新しい心」を与え、みことばの感動をくださるのです。以前は神に無関心だった人が神を慕うようになります。以前は聖書に興味がなかった人がみことばを求めるようになります。人を助けること、人を励ますこと、人に愛を伝えたいという思いが内側から湧き上がって来るようになる。こんな小さな者だけれども、それでも、人のため神のため、世界のために何かをさせていただきたいと思う者に変えられていく。それは、なんと嬉しく、魅力的な変化でしょうか。
3.神は罪をもう思い起こさない(17-18節)
しかし、志を持って前に進む時、尚私たちは罪の縄目に縛られる。しかし、これらの変化と前進の土台となることばが17節にあります。
17節 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。
神の赦しの完全性が、私たちを前へと進ませてくれます。「思い起こさない」ということば。これは未来形が用いられています。日本語で未来を表現するならば、「~だろう」という曖昧な表現になります。しかし、ギリシア語の未来形は話し手の確定的宣言に用いられる傾向があります。しかも、ここでは否定語が二つ使われ、とても強い否定です。ですので、それを踏まえるならばこう言えるでしょう。「わたしは将来に渡って、もはやあなたの罪と不法を決して思い起こさない」と。確定的な宣言として主が言われているのです。それは、「裁きのために二度と、あなたの過ちのことを持ち出さない」ということです。これが神の赦しです。これが、神様が私たちをどれだけ愛しておられるかの証しです。キリストによって赦した罪を、神は再び告発の材料には決してしないのです。
私たちに前を向かせるためです。立ち直らせるためです。
何度でもやり直しの機会をくださる主です。
私たちはしばしば過去に縛られます。サタンも「お前はあんなことをしたではないか」と過去を何度も持ち出し、私たちを潰します。あるいは、「善人ぶって澄ましているが、お前のあの行動は何だ?あの時のお前の心はどす黒いではないか?」と責め立てるのです。
しかし神は言われます。「悪魔やこの世の声に惑わされてはならない!」と。「その罪はわたしの子イエスがすでに贖ったのだ、もう二度と思い起こさない!」と。なんという恵みでしょうか。もし神様が私たちの心も人生をすべて裁かれるなら、誰一人まっすぐ立てる者はいません。しかし、神はキリストの十字架のゆえに赦しを与えてくださいました。それは部分的な赦しではなく、完全な赦しです。ですから、18節でこう語られます。
18節 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。
もうきよめのささげ物は不要です。あなたのすべての罪が赦され、二度とさばきのために持ち出されることがないからです。
それでも、私たちは尚、過去の自分の過ちや失敗に囚われるでしょうか。そんなアナタになお、主は言われるはずです。「あなたは、聖なる神の子のいのちが、そんなにも力なき安い犠牲だと言うのか?尊い神の子イエスが、いのちがけで払った賠償金は、そんなに安いのか?」
主の尊い犠牲は、あなたの100億回の罪の賠償金を払ってなお、はるかに余りあるのです。
ご一緒に教えられてまいりました。今日のみことばには、二人の祭司の姿がありました。一人目は、毎日立ち続ける祭司です。終わらない努力。終わらない償い。終わらない不安でした。しかし、もう一人は、神の右に座しておられる大祭司キリストです。救いを完成したゆえに着座された方。私たちはどちらに信頼するでしょうか。自分の努力ですか。それとも十字架ですか。
今日もあなたを愛してやまない神様は、親しく語りかけておられます。
「わたしは御子の十字架によって赦したあなたの罪を、二度と思い出し、持ち出すことはない。だから、この赦しの十字架を心から信じてここに立ちなさい」
悪魔やこの世が攻める声からも、あなた自身が責める声からも、自由にされ、前に進みませんか。この世界の主である神が、あなたの罪も不法も、二度と思い出さないと宣言されたのです。