*** 6/10(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちには弱さがあり、しばしば神様を信頼しきれず、疑いを抱くこともあります。しかし、そのような不信仰に陥る弱さの中でさえも、主を呼び求める者でありたいのです。そうした信仰の弱い者の叫びや訴えさえ、主には聞こえているのですから。
さて、この詩篇6篇も3篇と同様に、ダビデ王が自分の息子アブサロムに反乱を起こされた厳しい状況におけるものと考えられています。
1節で、ダビデは自分が息子に反乱を起こされた厳しい状況を「神の怒り」と考えたようだと分かります。なぜでしょう。おそらく、息子たちの問題を適切に正しく裁けなかったという負い目、罪の意識があったのだと思われます。ダメなものをダメだと言えなかった。こうした自分の過ちゆえに息子が謀反を起こした。それを神の怒りと懲らしめだとダビデは考えました。
ダビデの信仰も弱っていたということかも知れません。しかし、それでもダビデは主に懇願しているのです。ダビデは「責めないでください」、「懲らしめないでください」と弱さの中でも主に訴えます。2節でも「あわれんでください」「癒やしてください」と。このダビデの信仰に倣いたいのです。彼は正しさを主張せず、「私は間違っていました。そして、今、あなたの怒りに震えて弱っています。だから、あわれんでください」と祈りました。罪深く弱いそのままの自分をさらけ出し、主にまっすぐ助けを求めているのです。
そして3節にこうありますね。
3節 私のたましいは ひどく恐れおののいています。主よ あなたはいつまで──。
ダビデは恐れを告白するとともに、「主よ、あなたはいつまで」と祈りました。ある学者は、このことばを「不信仰の中の信仰」と表現します。興味深い表現です。「主よ、あなたはいつまで」とのことばの奥に、信仰の揺らぎを感じないでしょうか。「あなたを信じているから、私は大丈夫、問題ありません!」とは祈りませんでした。そのような強い確信ある信仰の状態ではないのです。
むしろ「この苦しみに終わりはあるんですか?本当に終わるのですか?」と疑い、おびえつつ、訴えているように思えます。
しかし興味深いのは、疑いや信仰も弱り果てる中でさえ、なお神様に望みをかけている点です。「主よ、あなたはいつまで」と疑いつつも、やはり神様に向かうのです!信仰がないなら神様に語りかけないですよね。『不信仰の中の信仰』です。時に私たちは疑いを抱きます。恐れや戸惑いもあります。信頼しきれないでいるのです。しかし、その中でもなお神様に向かって叫び続けるのも信仰なのです。その証拠に、1-4節で彼は絶えず、「主(YHWH)よ」と御名を呼び続けていますよね。
4-7節では、自分の弱さを具体的に表明し、同時に神様に助けを求めています。4節で、主よ 帰って来てくださいと懇願します。主が御顔を隠し、自分から離れているように感じたのでしょう。それも信仰の揺らぎです。
そして、向きを変え、私の方に戻って来てください(turn)と訴えます。私のたましいを助け、救ってくださいと祈ります。不安や疑いの中でも神様の恵みの深さに望みをかけ、求めているのです。「恵み」という語は「ヘセド」です。「神の永遠に変わらぬ愛」を表現する際に用いられます。私たちもどんな時でも、この変わらぬ愛と恵みとに帰りたいのです。ここに望みがあるからです。
6-7節では、嘆きと涙を包み隠さず伝えます。毎晩泣き明かす日々。それゆえに、その涙で寝床も涙で濡れているのです。ダビデはこの時、どれほど苦しみ、弱っていたことでしょうか。このような不信仰と思える弱さの中で、それでも主に祈り求めていく時に、人の理解を超えた主からの平安が与えられ始めるのです。
8節 不法を行う者たち みな私から離れて行け。 主が私の泣く声を聞かれたからだ。
ダビデはここで、不思議なことに信仰における勝利へと至っています。最初は衰えていました。恐れていました。神の怒りだと思い、疑いさえあったでしょう。しかし、彼は「主(YHWH)よ」と、神様の御名を何度も呼び求め、この方にあわれみを乞いました。救いを求めました。弱り果てて毎晩涙する日々であったことも打ち明けました。正直に神様に祈り求めたのです。その結果、彼には確信が訪れたのです。「主が私の泣く声を聞かれたからだ」と。主はご自分を求める者、ご自分に身を避ける者の声に聞いてくださるのです。ですから、9節では、「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる」と告白しています。
それゆえに、いよいよ不法を行う敵たちに向かって、「離れて行け」と強気で言えたのです。10節ではこのように語ります。
10節 私の敵が みな恥を見 ひどく恐れおののきますように。 彼らが退き 恥を見ますように。瞬く間に。
最後の、彼らが「退き」の部分は重要です。「退く」と訳されたことばは、この詩篇6篇で既に1回出て来たことばです。何節のどの言葉だと思われますか? 先程の4節の「主よ 帰って来て」の部分と同じことば「シューブ」が使われているのです。この語は、「向きを変える(英訳:turn)」という意味を持ち、非常に美しい対比があるのです。ダビデは4節では、神様に主よ、私の方に向きを変えて戻って来てください(turn)と求めました。すると主の臨在を近くに感じ、勝利へと至っていきます。その結果、今度は、自分に向かって来る敵が、向きを変えて去って行ように(turn)と力強く主にあって祈るようになったのです。
主が向きを変えて戻って来ると、敵が向き変えて去って行くということです!!それを同じことばを使って表現している。非常に印象的な詩的な修辞法ですね。
これが勝利のカギです。ダビデは自らの失敗、自らの負い目を悔いていました。そして、今ある苦しみが、自分への「神の怒り」だと思えてならなかったのです。けれども、主の懲らしめであるならば、そこに主の愛があるのです。ですから、何度も主を呼び求め、正直に弱さを告白しました。
私たちの誰もが、同じような弱さを抱えていることでしょう。私も過去に多くの過ちを犯してきた罪人です。そのための報いを様々な場面で受けていると感じることがあります。しかし、その時に、苦しくても、恐れていても、疑いながらでも、なお神様に叫び、求めていくことが大切です。弱いままの自分、疑うままの自分で尚、主の前に出ましょう。私たちもダビデのように、どのような時にもこの方を呼び求めましょう!!そして、自分の正しさをアピールするのではなく、自らの弱さと愚かさを正直に訴え、その助けと救いを求めようではありませんか。
弱さや欠けのあるままで神様のもとに行きましょう。その時、主なる神様ご自身があなたに向かって御顔を向け、御顔を照らし、慰め祝してくださっていることが分かるはずです。そして、あなたの敵を退けてくださるので、もはや、あなたに敵対できる者は消え去って行くのです。不信仰の中にあっても、わずかな信仰で主を求めましょう!
主はそのからし種ほどの弱い信仰の私にさえ、豊かな恵みとあわれみを下さるのです。
