*** 8/16(日)主日礼拝 説教概略 ***
初めてのことって、すごく心に残りますよね。初めてバイト代やお給料をもらった時、初めて深く愛を感じた時。嬉しくて「ありがとう」という気持ちです。
しかし、人は慣れます。愛されることにも慣れてしまいます。やがてそれが「当たり前」になってしまう。家族がいること、仕事があること、友だちがいること。「ありがたい」と思っていたのに、いつの間にか「当たり前」になってしまうのです。初心を忘れないことが、一番難しいのかも知れませんね。
神様の恵みと愛についても、同じことが言えないでしょうか。イエス様の十字架を初めて深く理解できた時、感動の涙を流したかも知れません。神の愛の大きさ、その赦しの完全さに「心からありがとう」と思えたでしょう。
しかし、何年、何十年と信仰生活を続ける中で、いつの間にか「当たり前」になっていないでしょうか。「どうせ赦される」、「また罪を犯しても大丈夫」と、恵みに甘んじて罪を犯し続けてしまう。そんな「罪深い甘え」が私たちのうちにないでしょうか。
そのような弱い私たちに、主は今日も愛をもって語られます。「キリストの十字架を当たり前にしないように」と。なぜなら、献げられた御子の血は、何にも代えがたく尊いものだからです。この救いがどれほど尊い大切なものであるのか教えられましょう。その価値を骨身に染みて分かる者となって、日々、主の恵みに感動し、喜びながら歩んでいこうではありませんか。
1.恵みを知った者への警告(26-27)
26節 もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、
27節 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。
これは何も知らない人への注意ではなく、十字架を知った者への注意、警告です。26節では、「真理の知識を受けた後」で、なお、「進んで」罪にとどまり続けるなら、そこにもう救いはないと語ります。これを真剣に受け止めたいのです。もちろん、誰でも罪は持っています。クリスチャンもやはり罪を犯します。犯したくないのに、それでも毎日のように犯してしまいますよね。ゆえに罪自体を問題にしているのではないのです。罪はある。ただ「進んで罪に留まり続ける」ことが問題です。
それは、「悔い改めることをやめること」なのです。
誰でも、妬みに囚われることもあれば、人を赦せないこともある。富の誘惑に惑わされ、性の誘惑に敗れ、名誉に心奪われることもありえるでしょう。しかし、一番の問題は罪を犯したことではなく、その罪を悔い改めないことです。イエス様のもとに帰らないことです。
罪を犯してしまった際、「みんなもやっているから」、「どうせ赦されるから」と正当化することが「進んで罪にとどまること」なのですよね。それは悔い改めを捨ててしまうことだとも言えます。何より、悔い改めの本質は罪の道から、神様の方へと方向転換することです。
私たちは度々罪の道にそれてしまう弱さがある。でも、神の道に戻り続けること、これが大切なのです。これをやめたら、神様からどんどんどんどん離れて行き、滅びに歩んでしまうのです。「天国に行けるから大丈夫だ」と高をくくり、救いの恵みを、「安心して罪を犯すための保険」にしてはならないですよね。イエス様の十字架を、「罪を犯すための免罪符」にしてはならないのです。それこそが御子を踏みにじること。
そうではなく、「イエス様、こんな私のために本当にありがとう」と、十字架の側にいつでも立ちたいのです。そして、「主よ、あなたに喜ばれる歩みをしたいです!罪から離れたいです!私を造り変えて下さい!」と祈り続ける者にならせていただきましょう。
2.キリストを拒むことの重大さ(28-29)
続く28-29節では、キリストを拒むことが、どれほど残念なことなのか、自分に厳しいさばきを課すことになるかを示しています。かつて、モーセを通して古い契約が与えられました。神の御子ではなく、モーセを通して与えられた契約でさえも、意図的に拒み神を捨てるならば、滅びが待っていたのです。そうであるならば、神のひとり子がいのちをかけて備えた新しい契約を拒むことが、どれほど重い背きであるかが分かるのではないでしょうか。
29節 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。
「神の御子を踏みつける」。「聖なる契約の血を汚れたものと見なす」。「恵みの御霊を侮る」。どの表現も切れ味鋭いナイフのようです。イエス様の十字架を無視し、軽んじることは、このような行為に当たると鋭く語られているのです。その鋭さが愛の鋭さだと分かっていても、決して私たちの心に心地よくは響かないでしょう。
その意味では、先ほどのお証しに出てきた『パッション』という映画もそれに似ているかも知れません。決して楽しいエンタメではありません。心温まる感動スペクタクルでもありません。イエス様の十字架の苦しみにフォーカスした内容ですから、直視するのもしんどいかも知れません。けれども、その鋭さが、「恵みに対する罪深い甘え」から、私たちを解放すると考えれば、とても価値があるものでしょう。
キャンプの奉仕に行くと、普段以上に「一期一会」という意識が高くなります。そこで出会う一人ひとりと何度も会えるとは限らない。ですから、子どもたちが相手でさえ、メッセージに鋭さや迫力もしばしば伴います。「もっと面白い楽しい話が聞きたい」と言われることもあります。もちろん大爆笑も起こります。それでも、愛の鋭さが必要なのであえて語ります。心刺される子も起こります。でも、真剣に聞いてくれるとき、その先に救いが生まれ、真実を知ったゆえの平安と笑顔が待っているのです。
このヘブル書の著者も同じ思いでしょう。いえ、神様ご自身がどうしても私たちを救いたいゆえに、愛の鋭さをもって、私たちに訴えかけておられるのです。
その上で、この点もお伝えしたい。罪を繰り返してしまう時、私たちは自分に嫌気がさし、神様の前に出てはいけないと考えるかも知れません。しかし、救いを尊ぶ歩みとは、「またやってしまったからこそ、キリストのもとに行こう!もっと近づこう!」とすることなのです。罪深い者だからこそ離れるのではなく、主に近づくのです。それがみこころです。私たちの心に語りかける神の御霊はそれを助けてくれます。罪を気づかせ、悔い改めよと心に訴えかけるのです。ですから、御霊を侮らず、主のもと行くことを大切にしましょう。それこそが、イエス様の十字架のみわざを尊ぶことになるのですから。
3.聖なる神への畏れ(30-31)
30節では、このように語られています。
私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する」また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。
読者であるあなたも、手紙を書く私たちも、神がどういうお方かを知っていますよねと伝えているのです。読者はヘブル人(ユダヤ人)でした。特に旧約聖書をよく知る者たちと考えられます。つまり、神様は罪をなかったことにせず、報いる方、さばかれる方だと、読者たちも知ってはいるのです。それを確認した上で31節にてこう続けます。
31節 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
少なからず神の力と聖さを知るならば、分かるでしょう?神である方に意図的に背くことは、とても恐ろしいことなのだと。神を畏れ敬って歩みなさいと語られるのです。罪を軽く見積もらないようにしたいのです。
例えば親子関係でも、「親は結局赦し受け入れてくれるから、何をしてもいい」と考えることは、親の愛とやさしさを踏みにじる行為です。そうではなく、「胸を痛めながらここまで愛してくれているのだから、もう悲しませないようにしよう」と応じることが、父母を敬う姿勢ですよね。神を恐れる姿勢においても同様です。「神様は赦してくださるから罪を犯しても大丈夫」ではなく、「神様はこれほどまでに私を愛してくださった。だから、この愛に応え罪から離れよう」と応じたい。そしてむしろ、「小さな私だけど、神様のために何かをしていこう」と決心する者でありたいのです。
神様は今日も、あなたへの愛ゆえに語っておられます。「あなたは、キリストの十字架を本当に大切なものとして生きていますか?」と。慣れてしまい「当たり前」としてはいないでしょうか。赦されることに甘え、罪に歩むことに慣れてしまってはいないでしょうか。むしろ、御子の血の価値を知る者となりましょう。その深い愛を頭ではなく、たましいで受け取る者となりましょう。神様は私たちの誰にも滅んで欲しくないのです。罪のゆえに互いに傷つけ合っている姿が悲しくて仕方がないのです。ですから、愛するわが子を犠牲にしてまで、私たちを救って下さいました。
今日、私たちは主のみことばに聞き、改めて十字架を見上げたい。赦しは決して軽くないのです。大きな痛みと苦しみを何も悪くない神の御子が担って下さったのです。こんなにも汚れた私のために、御子がいのちまで与えて下さったのです。「本当にありがとう」と応答したい。
御子イエス様による十字架の救いのみわざです。「本当に大切なもの」として歩みましょう。
