東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇11篇1-7節「主こそ、私たちの避け所」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2026/08/14

詩篇11篇1-7節「主こそ、私たちの避け所」

*** 8/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 詩篇11篇は、危機の中で「どこに身を避けるのか」を問う詩篇です。ダビデは命を狙われていました。ですから周囲の人々は、「鳥のように山へ逃げたらどうか」と勧めたのです。それは、人間的に考えれば当然の助言にも思えます。

 しかしダビデは、私は「主に身を避ける」と答えました。



 私たちはどこに身を避ければ、本当の意味で安心・安全なのでしょうか。もちろんそれは山や洞窟ではなく、全知全能の正義の神、主のもとです。様々な人生の危機に直面する私たちですが、主はその御翼のもとで私たちを守り、支えて下さるのです。


 さて、11篇は非常にシンプルな2つの内容から構成されています。3節までの前半はおもに、危機において人間的・現実的な考え方が紹介されています。それはそこに生きて働かれる主を見ていないので、ある意味とても消極的で臆病な判断となっています。そして、4節からの後半は、天の神を一心に見つめる勇敢な信仰が語られています。私たちはこの前半の考え方ではなく、後半の信仰の姿に倣い、力強く歩んで参りたい。

 さて、この詩篇の背景については、ダビデがサウル王のもとで、彼から妬まれ、命を狙われていた日々のものと考えられています。Ⅰサムエル18:29では「サウルはずっとダビデの敵となった」と語られています。サウル王はダビデを妬み、継続的にダビデの命を狙っていたのでした。そんな状況でしたから、周囲の者たちはダビデに言ったのでしょう。

 1節の「」の部分から3節にかけて、その助言があります。

鳥のように自分の山に飛んで行け。2それ見よ 悪者どもが弓を張り 弦に矢をつがえ 暗がりで 心の直ぐな人を射抜こうとしている。3拠り所が壊されたら 正しい者に何ができるだろうか。

 まず、鳥の例えが出てきます。鳥は、危険を察知すると素早く飛び立ち、山の方へ飛んで行きます。それは本能的なもので、危険を察知するととにかく素早く飛び去ります。「鳥のように、とにかく逃げよ」と助言する者たちがいたのでしょう。山というのは高くて隠れる場所も多くあるため、安全な「逃げ場」と考えていました。普通の感覚では、至極当然の助言であったと言えるかも知れません。

 この直前に、ダビデはなぜ、自分のたましいにこのように語りかけるのかと疑問を呈しています。それは彼にとって、この戦いは「霊的な戦い」であって、信仰の誘惑と感じていたということかも知れません、

 2節では、悪者どもがダビデを暗殺しようといつも狙っていると言っています。確かに少しも気が休まる瞬間がないような、危険な状況であったと言えます。ただし、霊的に見るのならば、周囲の人々は「恐怖ばかりを見つめ」ており、そこに臨在される力ある主を見ていないのです。

 そして3節で、この声は、「拠り所が壊されたら 正しい者に何ができるだろうか」と、いかに絶望的な状況であるかを指摘しています。この「拠り所」というのは、「土台」とか「基盤」という意味があります。この社会を支えている真理や正義といった原則のことです。

 ダビデの置かれた状況では、国のトップ、最高権力者が自分の命を平然と狙ってくる状況。法も秩序も失われたに等しい状況だったのでしょう。正しい者が何をしても無駄だと見えたのでしょう。それならばいっそ逃げるしかない・・・そういう発想です。ダビデは圧倒的に不利で、危険な状態になっていたのです。ですからもはや、サウルのもとにいないで、「山にでも隠れてしまえ」と周囲の者たちは言ったのでしょう。

 そして「拠り所」と訳されたことばは実に複数形です。「いくつもの様々な拠り所」を誰もが持っていて、それらに頼っているのでしょう。しかし、どれも確かなものではないので、この脆さがあるのです。

 私たちクリスチャンであっても、神様以外の幾つもの拠り所を持っていて、それによって安心を得ようとしている事もあるのではないでしょうか。私も外部奉仕の際に、知人がいるかどうかを安心の拠り所にすることがあります。経済面や才能面、頼りになる人を拠り所にしていることに気づくのです。誰もが、無意識のうちに多くの拠り所を持っているのです。

 しかし、それで安全でしょうか?数がいくらあっても、不確かなものを沢山集めて合計したところで、それが確かになるわけはありません。

 しかし、私たちの歩みを確かにする拠り所は一つだけです。主なる神様ご自身です。ダビデはそう考えました。

 彼も怖かったでしょう。不条理な目に遭い、恐れと不安の日々を過ごしていたことは、他の詩篇からも分かります。それでもダビデは、彼らとは異なり、世界で最も確かな拠り所を持っていました。そして、持っているだけでなく、主の力とそのご計画を信じていました。ダビデの拠り所、ダビデの避け処は主なる神様ご自身でした。ですから1節冒頭で宣言した通りなのです。改めて読んでみましょう。

1節  主に私は身を避ける。 

 この短い宣言こそ、最も信仰に満ちた力ある宣言です!
 ダビデは、どこにいようとも主が自分の避け処であると告白し続けていたのです。彼が最終的に身を避けた場所は、山でも洞窟でもなく、主ご自身でした。



 ダビデは4節以降の後半において、この主に目を向け、この方の偉大さを語ります。この方こそ最高の避け処、また拠り所なのだと告白しているのです。そして、現実を人間の低いレベルの視点で見るのをやめ、天におられる神様の視点から見る景色を語ります。神様の目に、この世界はどう見えるのでしょうか。 

4主はその聖なる宮におられる。主はその王座が天にある。その目は見通し そのまぶたは人の子らを調べる。5主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは暴虐を好む者を憎む。  

 まず、主は天にある聖なる宮、永遠の宮におられる全能の神様だと告白します。その目はすべてを見通し、すべての人の心の隅々までも調べることができるのだと。正しい者と悪い者の上辺だけでなく、その心までも調べ尽くします。そして、世界を全部見通しているだけでなく、悪を憎む正義のお方であるのです。さらに続く6節では、実際にこの正義の神、すべてをご存知の神様が、悪しき者たちにジャッジを下されること、その正義の審判を下せる神であることを告白しています。最後の審判を意識しているのかも知れません。

6主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄燃える風が彼らへの杯。

 ダビデは逃げたことのない人ではありません。彼の人生は、むしろ何度も逃げなければならない人生でした。しかし、彼が逃げ込んだ先は、山でも洞窟でもなく、主ご自身のところでした。逃げないことが必ずしも勇敢な信仰というわけではありません。逃げなければならないときにも、「私の避け所は主だ」と信じ、主の懐に身を避けることこそ信仰です。主のみこころを絶えず求めるのです。7節を味わいましょう。

7主は正しく正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。

 神は正しいお方であり、さらに正義を絶えず愛し続けるお方です。直ぐな人とは、神に対してまっすぐ立つ人。主を信じてまっすぐに歩もうとする人。その人は、御顔を仰ぎ見ると締めくくられています。私たちが求めるべき避け所は、神が与えてくださる「場所」ではなく、「神ご自身」なのです!!いつも申し上げていますが「どこに行くかではなく、誰と歩むか」です。美しく荘厳な聖堂の中で主を見ないよりも、人ごみの街中で主を見つめる人の方が、安全・安心であり、祝されるのです。主に身を避ける人は、主のふところにいますから、主の御顔を仰ぎ見る人になっていきます。私たちが求めるべき避け所は、安全に見える場所ではなく、神ご自身です。

私たちのために、十字架でいのちまで与え尽くしてくださった主キリストの神です。いつでもイエス様の十字架の側に立ち、この方のもとに完全な赦し、完全な救い、確かな人生があることを信じて歩んでいきましょう。

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *