*** 8/9(日)主日礼拝 説教概略 ***
酷いことをされたり、悲しいことがあったりした時、隣人にどのように対応されると慰められるでしょうか。「そんなこと、気にするな」と言われる事でしょうか。
だいぶ前の話で、この教会とは関係ない話ですが・・・。私がある所で侮辱された際、私自身は受け流していたのですが、その場面を見ていた妻が、家に帰ってからとても頭に来たと伝えてくれました。普段滅多に怒らない妻です。しかし彼女が珍しく、私以上に怒っていました。ただ、その時私は、とても慰められたのです。「ああ、妻は私のために怒ってくれている」と。
私たちは、自分が傷ついたときに、一緒に怒ってくれる人がいる、一緒に泣いてくれる人がいると、とても慰められ、愛されていると感じるのではないでしょうか。それは、『あなたの痛みは、私にとっての痛みなのです』と告白する「愛」にも思えます。
本日のみことばにおいて、主イエス様が憤り、涙される姿があります。そこに秘められた私たちへの深い愛をともに味わいましょう。
1.憤りに秘められた愛
11章32-33節をご覧ください。
11:32
マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 11:33
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
マルタとマリアの兄弟のラザロが、病で死んでしまった場面です。ラザロが死んだので、その姉妹のマルタもマリアは絶望して泣いていました。イエス様はその場面をご覧になったのです。その時、イエス様が最初に感じたことは、みことばによれば「怒り」でした。
33節に「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」とありますよね。
これはイエス様が、たましいの底から強く怒っていて、心が非常に動揺している姿です。イエス様は「本気で怒っている」のです。では、イエス様はなぜ怒り、心騒がせているのでしょうか。何に対して怒っているのでしょう?
人々の不信仰に対する怒りだと考える人々もいますが、そうではないでしょう。悲しむ彼女たちに追い打ちをかけるように、本気で怒るとは考えにくい。しかも、その信仰を批判することばもありません。そうではなく、「罪と死の力」に対しての怒りであると理解すべきでしょう。大切なラザロのいのちを奪い、その家族や友人をここまで悲しませているのです。
主イエスが愛している人々から、その大切ないのち、大切な人生を奪った。みんなから大切な人を奪った「罪や死」、そしてその「悪しき支配力」への激しい憤りではないでしょうか。イエス様は、アナタを深く傷つける罪と死の世界に対して私たちの代わりに怒って下さるのです!そしてまた、罪が入る前には、この死の悲惨はなかったのです。ですから、悲惨な罪の世界、死の世界に対して、「本来はこうではないのだ!」という怒りもまた、そこにはあったかも知れません。
2.涙に秘められた愛
そしてもう一つ。ここにはイエス様が涙を流されたという貴重な記録があります。主イエス様はロボットのように何も感じない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、とても優しいからこそ傷つき、心を騒がせ、怒り、そして涙されたのです。
35節 イエスは涙を流された。
先ほどは怒りの理由をお話しました。では、この涙は、どのような涙だったのでしょうか。36節によれば、ユダヤ人たちは、ラザロへの愛の深さゆえ、主はこの死を涙して悲しんだと理解したようです。ところがイエス様は、この後ラザロをよみがえらせる奇跡をなさいます。つまり、イエス様は、彼が生き返ることを知っていたわけです。もし、彼を失った悲しみならば、すぐに生き返って再会できるのですから、少し不自然ですよね。
じゃあ、このイエス様の涙は何のためなのでしょう。
もちろん、生き返るとしても、ラザロが死ななければならなかった現実を深く悲しんだのでしょう。しかし、イエス様はラザロに限らず、世界中の愛するすべての人が、この「罪と死の支配の中で苦しんでいて、本当にかわいそうだ」と、あわれまれたのではないでしょうか。誰もがこのラザロのように死に至る。このような「罪と死に支配されたこの世界は、本当にみんな辛いよね」と。そして、この死によって、大切な人を失ってしまう者たちの悲しみが、いかに大きく、深いかに心を留められたのでしょう。マルタやマリアが愛する人を失って絶望して、本当に深く悲しんでいるのを知って、『本当に悲しいよね。辛いよね』と、深く同情し、一緒に泣いてくれているのです。
神様は人間に涙腺を与え、そして感動したり、悲しんだり、同情したりする感覚を下さいました。「もらい泣き」というものが人にはあります。他の人が泣いている姿に共感し、自分のことのように泣けてくる。これは神様からの尊い贈り物だと思いませんか。イエス様も、愛する人を失うということが、どれほど私たちにとって辛く悲しいことなのかを分かって、涙して下さったのです。なんと励まされることでしょう。
さて、この場面のイエス様の憤りと涙について教えられました。こうしてみると、実は、憤りも涙もその理由、その本質も、別のものではないと気づかされます。愛する者のための憤り、愛する者のための涙です。
イエス様はご自分のためには、怒らないし、涙されませんでした。
同胞から命を狙われ、自分の家族からも理解されませんでした。ユダに売られ、逮捕の際には弟子たちに逃げられ、ペテロからは3度も否定された。死なないギリギリレベルのむち打ち刑に処せられ、神であるのに「神を冒涜している」と批判され、唾をかけられ罵られた。それでも、イエス様は自分のことでは怒らず、ご自分のためには涙しませんでした。
でも、あなたのためには怒り、あなたのためには泣いてくれるのです。そして、イエス様の怒りと悲しみは、憎むべき罪と死に向かいました。罪と死へのこの憤りとその悲しみは、主イエスを十字架に進ませました。罪と死への正義の怒り、そして罪と死の奴隷となっている私たちの悲惨への涙。これらが私たちを救うためのいのちがけの十字架となったのです。
3.イエスの愛に生きる
これほどに愛されていますから、この愛をしっかり受け取って、主イエス様とともに歩み続けていきたいですね。さて、ラザロが主イエス様のみわざで生き返ったあと、過ぎ越しの祭りの食事会がありました。ラザロもそこに参加したのです。12章1-3節
1節 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2節 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。3節 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
ここには三人兄姉が出て来ます。姉妹のマルタは食事の用意で忙しい!もう一人の姉妹マリアはイエス様の足に香りのオイルを塗って差し上げている。では、ラザロはどうでしょう? 1節でも2節でも、ラザロの動作を表現することばは、「いた」です。食事会の中にイエス様と一緒に「いた」だけです。姉妹たちとは対照的です。当然かも知れません。少し前まで病で死んでいたのですから。体力もないでしょう。何も動けず、静かにイエス様と食事会に参加していたということかも知れません。ところが・・・9-11節を見て下さい。
9節 すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。10節 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。11節 彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
人々は、イエス様だけでなく、ラザロをも見るために来ました。「あいつ、生き返ったらしいぞ?本当だ、すごい!やっぱりイエス様って神の子なんじゃないか?救い主かも?」と、どんどん信じてしまったのです。なんと、ラザロは役に立っている! もう一度伺います。ラザロは何をしたのでしょう? 死んでいて生き返っただけ。食事会にいただけ。イエス様の奇跡を体験した者としてそこに一緒にいただけです。
なのに・・・多くの人はイエス様を信じたのです。大事なことは、何かすごいことができるとかではなく、イエス様と一緒にその場に「いる」ということ。死んでたんで、まだあんまり動けないから「寝ておきます」とか、みんなから見られるのイヤだから「隠れます」としなかった。イエス様の奇跡、救いを体験した者として、その場に居続けた!大事なことは、こうして皆さんがイエス様を信じてここにいるということ。
なぜなら、主イエス・キリストに力があるからです!このイエス様のおかげで、今私は生きている。今私は安心でき、笑顔にされ、生きる喜びと希望を抱いている。そうやって日々、主イエス様のおかげで生きていることを隠さないこと。
今日も主は親しくお語りになっています。奉仕は色々ありますが、一番大事な奉仕は、「イエス様と一緒にここにいること」です。体に様々な弱さがあり、「奉仕も出来なくて申し訳ない」とおっしゃる方がいます。けれど、ここに来て、ともに主の前にいて下さる。一緒に賛美し、一緒にみことばに聞いてくださる。それだけでとても尊い奉仕がなされているのです。
『何かできる』より前に、『イエス様と一緒にそこに生きている』。それが一番大切です。
