*** 8/2(日)主日礼拝 説教概略 ***
来週招かれているキャンプテーマは「ベストフレンド~イエス様は友だち~」です。
実際イエス様は、弟子たちにあなたがたを「しもべ」とは呼ばず、「友」と呼ぶと言われました。旧約聖書においても、しばしば神様は、ご自身が召した者たちと「友」のように関わって下さってもいます。では、良い友人の特徴とは何でしょうか。
一つには、本音で何でも語り合える親しい関係だと言えるでしょう。
本日のみことばでは、エレミヤが神様に議論を吹っかけている場面です。エレミヤは理解できない正直な思いを神様にぶつけました。それを言えるのも、信頼関係があるからです。それに対して神様はどのように答えられたのでしょうか。みことばから教えられて参りましょう。
1.エレミヤの疑問、神への訴え(1-4節)
1節「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。 なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。
エレミヤは神様に対して疑問を抱いたのです。なぜ、悪者が成功し、裏切り者が安らかに過ごしているかと。預言者エレミヤに殺意を燃やす人々を、神はなぜそのままにしているのかと。しかも、その中心には、エレミヤの故郷アナトテの人々がいました。彼の身内、同郷の人々です。神様が何もしてくれないように見えたのでしょう。
さらに2節前半では、彼はこのように訴えています。
2節 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。
エレミヤは言うのです。悪者を生み、悪者に自由にさせ、彼らに成功させているのは、「他でもない、神様あなたじゃないですか!!」と。ここまで言うエレミヤは大胆ですよね。
2節後半も印象的です。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます」。口先だけ神を敬い、心は神から遠く離れている者たちを批判しながら、彼らを野放しにする神様にも皮肉をぶつけている。ここには原語でことば遊び(しゃれ)があります。「近い」は「カローブ」、「遠い」は「ラホーク」。「カローブ」で「ラホーク」。音が似ていて印象に残ります。私たちも「カローブ」で「ラホーク」、「近くて遠い」状態になっていないかと心探られます。「口先では近いが、心は遠い」主はそれを悲しまれる。それなのに、あの悪い者たちは上手くいっているように見える。なぜですか?とエレミヤは疑問なのです。
その感情はさらにエスカレートします。
3節 主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。
エレミヤ自身も神のさばきを受ける覚悟を示しながら、悪への厳しいさばきを強く訴えているのが分かります。身内にいのちを狙われていると知り、彼はとても傷ついたのでしょう。さらに4節では、我慢しているのは自分だけではないと主張します。
この大地、農作物、草花、家畜、鳥たち、この世界のすべての被造物が、自己中心的な者たちによって傷つき、苦しめられていると言います。「いつまで、皆が耐えなければならないのですか」と、被造物の代表として訴えるのです。そして最後の、人々は『神はわれわれの最期を見ない』ということばは、罪深い人間たちの高慢な姿ですね。悪いことをしても、神は、滅ぼしはしない!だから悔い改めない。「それでいいのですか?」と彼は訴えるのです。悪者にもあわれみ深く忍耐しておられる神に、エレミヤは忍耐出来なかったのです。エレミヤの気持ちが分かる気がしますね。
しかし、エレミヤの訴えは本当に正しいのでしょうか。考えさせられるたとえ話がマタイ20章にあります。「ぶどう園の主人」の話です。早朝から働いていた者と、夕方に雇われて1時間だけ働いた者がいました。その際、朝から働いていた者に契約通りに賃金を払いました。ここまではいい。しかし、その後、1時間しか働けなかった者にも同額渡したのです。働きの場を探しまわって苦しんできたから、また、彼の家族や生活を考えた際に、同じだけあげたかったという事でしょう。簡単に言うと、主人はとてもあわれみ深く、優し過ぎるのです。それを知った早朝組は文句を言いました。不公平だと。
それに対して、この主人は最後にこう言いました。「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」と。直訳的には、「わたしが良いので、あなたは悪いのですか」です。もう少し説明すると、これは、「神があまりに良いお方なので、心が狭く愛のないあなたには悪く見えるのか」と問われているということです。
正しい者だけでなく、悪い者にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせる神様です。神様はとてもあわれみ深く、悪い人間さえも滅びないように忍耐してくださる。いや、そんなあわれみの神様だからこそ、ここにいる私たち全員も救われているのです。ですが私たちは、「神様、なぜあの人をすぐに裁かないのですか」と主張するでしょう。自分には深いあわれみを求め、他人には裁きを求める私たちです。なんと勝手なことでしょう。
エレミヤは傷ついたゆえに、自分も深いあわれみで赦された「同じ罪人」であることを見失ってしまったのではないでしょうか。
2.神の答え~友としてエレミヤに語りかける~(5-6節)
では、こうしたエレミヤの訴えに対する神の答えはどのようなものでしょうか。それは、エレミヤの期待とは異なるものだったと推測します。5-6節です。
5節 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、 どうして馬と走り競うことができるだろうか。 平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6節 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。
主の答えは、ただまっすぐな真実でした。
徒歩の人間と競争して耐えられないなら、馬と走るのは無理だ。穏やかな平地でしか過ごせていないなら、ヨルダンのジャングルでは無理だろうと言われました。何が言いたいのでしょう。「あなたにはこれから、もっと過酷な使命が待っている。わたしはそこに遣わすためにあなたを選んだのだ。落ち込んでいる暇はない、前を向きなさい」というメッセージです。
厳しいと感じるでしょうか。
続く6節で、具体的なことを主は示されました。あなたの兄弟や、父の家の者さえ、あなたを裏切ったり、あなたを騙したりする。家族や親戚でさえ、自分たちの利益を一番にする。「だから、人のことばではなく、神であるわたしのことばを信じてついてきなさい」ということでしょう。慰めのことばはありませんでした。
「神様、そこは慰めのことばでしょう!」と言いたくなります。エレミヤも慰めのことばを期待したことでしょう。「わたしが悪をさばき、あなたを守るから安心しなさい」と。この時のエレミヤは、自己憐憫の檻に閉じ籠り、悪をすぐにはさばかない「神のあわれみ深さ」に怒りを感じていたと言えるでしょう。
しかし、エレミヤが本当に知らなければならなかったことは、何でしょうか。自分が「可哀そうな人間だ」ということではありません。どんな時にも神は正しいということです。彼が1節の最初で自分から言ったことでした。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです」と。それを口先ではなく心で知ることが彼に必要だったのです。彼は口ではこう言いながら、心では矛盾した思いを抱えていたからです。彼のこの1節のことばが、本当に心からのものであれば、その後の神様への批判、訴えは起こらないはずでした。しかし、彼こそが、口先では神を正しいと言いながら、自己憐憫に囚われ、心では神様に対して怒りや批判的な思いを持ってしまっていたのでしょう。
それに対して神様はどう答えたのでしょう。主はエレミヤをも深く愛しています。
だからこそ、偽りの平安やお茶を濁した内容ではなく、まっすぐに真実を伝えたのです。甘やかすのでも、突き放すのでもなく、ご機嫌取りもしません。真実を隠さずまっすぐに伝えました。それは神様がエレミヤをともに労する同労者、戦友のように見ておられる証拠ではないでしょうか。
ヨハネ15章15節 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。
友は友のすることを知っている。すべての真実を話す。それが信頼し合う友だと聖書は言います。表も裏も、良いことも悪いことも伝える。苦しみも全部含めて、一緒にこの救いの計画を担ってくれ!と親友だから言うのです。
主はエレミヤを戦友のように思い、いい加減な慰めではなく、神の使命とそこに伴う痛みを伝えたのです。主はエレミヤを「可愛そうな被害者」として扱わなかった。何より、主はエレミヤをよく知り信じているのです。できない人には言いません。 先ほど、2節後半で私たちは、悪い者たちと神様との関係について語られていました。エレミヤ自身が語ったことでした。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます」と。「カローブ」と「ラホーク」ということば遊びがありました。「口先では近いが、心は遠い」ということです。それが神を恐れない者の姿です。しかし、エレミヤと神様の関係は違うはずです。綺麗事を伝え、エレミヤのご機嫌取りをすればどうでしょうか。それこそは口では近いが、本音から遠く離れているのです。でも、主は心を近くするため、厳しい真実をお伝えになった。
これが神様の愛の応答でした。エレミヤは苦しくて、辛くて、神様に嘆き訴えました。でも、それでいいのです。正直に思いを神様にぶつけることこそ、神様との生きた本物の、本気の交わりです。それが友の交わりだからです。だから神様も、安易な慰めや同情で返さない。「あなたの家族でさえ、この信仰のゆえにあなたに反対し、あなたを苦しめることさえある。それでも、あなたは私に従うか」と、主は問いかけている。それはエレミヤを苦しめるためではありません。エレミヤへの友情、愛の証しなのです。イエスも弟子たちに「世はあなたがたを憎む」と先に言われました。自分の十字架を負ってついて来なさいと言われました。
