東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇14篇1-7節「主の臨在を体験する信仰生活」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/09/24

詩篇14篇1-7節「主の臨在を体験する信仰生活」

*** 9/24(水)祈祷会 説教概略 ***

 昔、「神を体験する」という分厚い大きなテキストを学んだことがあります(途中で終わってしまったのですが・・・)。神を体験するというのは、信仰生活で大事なことに思います。主がここに生きて働いておられる、主の臨在に励ませて生きることです。今日の詩篇を通して、主の臨在を体験する信仰について教えられましょう。 



1愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。 

 この「愚か者」とは、勉強が出来ない人のことではありません。失敗ばかりする人のことでもありません。神がいないかのように生きる人です。神の存在は認めているかも知れません。しかし、実際には、神に拠り頼むこともせず、親しく心を通わせることもない者。同じ神の民イスラエルの中にも、そうした者たちがいたのです。「心の中で」と断りがありますよね。ですから、おそらく口では「主の御名を賛美します」と言いながら、心は遠く離れている者たちのことでしょう。それゆえ、神の力によって善を行うこともできないのです。そのような状態を主がご覧になったらどうでしょうか。23節にこうあります。

2主は 天から人の子らを見下ろされた。悟る者 神を求める者がいるかどうかと。
3すべての者が離れて行き だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。 

 主は上辺ではなく、心をご覧になる方です。神を求めて、みこころに生きようとする者がどれだけいるだろうかと見るとき、民の中にほとんど見いだせない。エレミヤ書を学んでいると、そういう現実を発見しますよね。神様を求めないので、神の知恵も神の愛も分からない。真理を悟ることもできない。そして、良い行いをするようにとして造られたのに、かえって「無用の者」となったと語られています。本来私たちは、「神のかたち」に造られ、神の良い行いをする「神の作品」まさに「有用な者」のはずです。しかし、神を無視して、悪と罪に流されて生きるならば、神の良いわざに生きられなくなります。それはなんとも残念なことです。そして、無用なだけでなく、4を見ると、こうした「不法の者」たちは、神の民を傷つけ蝕んで行く存在でさえあると語られています。

 しかし、神を無視して歩むならば、大いに恐れる時が来てしまう。神のさばきを目にする時でしょう。

5見よ 彼らは大いに恐れた。神は正しい一族とともにおられるからだ。 

 実際に、歴史の中でイスラエルの民もそれを経験してきました。神に逆らい、神を無視して、神がいないもののように平然と悪を重ねてしまった。預言者を無視し、警告を軽んじ、みことばを捨てました。その結果、国を失い、大切なものを失い、恐怖だけが支配しました。神を無視した結果、神の力の大きさ、そのさばきの厳粛さに、ひどく恐れることしか出来なくなったのです。

 併せて、神は正しい一族とともにおられるのだと語られます。では、「正しい一族」とは、どういう一族なのでしょうか。ある米国の教会の入り口にこんな立札があったそうです。「正しい完璧な方はどうぞご遠慮ください」と。米国ならではのユーモアを感じます。自分で自分を義とする完璧だと思うような人は、神を求めないからです。聖書が語る「正しい人」は、自分を正しいと思う完璧な人ではなく、自分の罪深さや愚かさを理解し、主の救いを一心に求める人なのです。自分の知恵が罪によって歪んでいる事を知って、神の善い知恵を求める者です。私たちも、表面的、形式的な信仰生活ではなく、主の臨在を体験できる「生きた交わり」のある信仰生活を歩みませんか6節にこう続きます。 

6おまえたちは 苦しむ者の計画を踏みにじろうとするだろう。しかし 主が彼の避け所である。 

 「おまえたち」とは、1節の「愚か者」であり、4節では「不法を行う者」と表現されていました。彼らは神を求めず悟らず、神の喜ばれる良いわざをしません。それどころか、4節にもあったように、神の民を苦しめる存在ともなってしまいます。ただ、最後はやはり主が守ってくださるという確信で終わります。そして、最後の7節のように歩んでいくことがみこころなのです。 

7ああ イスラエルの救いがシオンから来るように。主が 御民を元どおりにされるとき ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。 

 イスラエルの多くの者が主を求めなくなり、その教えを軽んじました。ですから、苦しみを通らざるを得なくなったのです。しかし、主からの苦しみを謙虚に受け止め、砕かれながら主とその教えの尊さを知る者とされる時、主は回復を与えて下さいます。今まで以上の恵みによって。「主が 御民を元どおりにされるとき ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ」と語られていますね。「ヤコブ」も「イスラエル」も同じ神の民を指す表現です。主の臨在を喜んで生きていきたいのです。

 

ここから何を語られているのでしょうか。

1.私たち自身も愚か者、不法の者にならないように

主は、私たちが「愚か者」「不法の者」のようにならないことを願っています。口先だけで主を敬う者とならないようにと。私たちも、教会生活をしながらも、神様が今ここにおられないかのように生活してしまう・・・そういう課題があるのではないでしょうか。「神の存在」を否定することはまずない。食事の前のお祈りもするし、イエス様を信じていますと言えるでしょう。その意味で無神論者ではありませんし、対外的にはクリスチャンでしょう。しかし、1節で「心の中で」とありました。心の中で本当に「主は生きてここにおられる」と思い、感じ、信頼して歩んでいるだろうかと問われているのです。家をどこに決めるのか。どういう仕事を選ぶのか。行くのか帰るのか。何を食べるのか、何を食べないのか。続けるのか、やめるのか。 そうした際に、神のみこころを本気で求めているかと。ほぼ、自分の思いのみで決めてしまうことも多いのではないでしょうか。 

私自身、少しも主に求めず、みことばも開かずに決めてしまっていたことに後から気づくことがあり、慌てて主に祈り始めることがあります。これらについて主と親しく語り合い、ゲツセマネの園のイエス様のように祈りの格闘をする者でありたいのです。

 

2.正しい一族、主を楽しみ喜ぶ者となる

そして、主は「正しい一族」とともにおられ、彼らを守られるとありました。また、主を楽しみ喜ぶようにともありました。どのような時にも主の臨在に触れ、生きた主との交わりを味わい、その恵みのみわざを大いに体験する者にならせていただきたいですよね。

 先日、聖書の学び会に参加されている方から、こんな証しを伺いました。礼拝に前に学びをしていると、その後の礼拝説教と「つながる」ことがよくあると。あるいは、礼拝の証しと説教が不思議につながったという感想もよく聞きます。なぜ、そうなるのでしょう。

 それは主を求めて行動しているからです。みことばを求めて学びに参加している。祈祷会に参加している。証しをし、奉仕をし、主のみこころに生きている。すると、主のみわざが、どれもつながっていくのを体験します。こんなご計画だったのかと感動します。

 主を楽しみ、喜びたいのならば、主を求めて行動することです。主の恵みの場に参加し、ともに生き、語られたみことばに生きることです。私たちは主を求めて実際に行動し、表面的にではなく、心の底から主を楽しみ喜ぶ者とされて参りましょう。

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