*** 9/30(水)祈祷会 ***
ふと考えることがあります。人間の目に映る素晴らしい信仰者と、神の目に見えている素晴らしい信仰者は、どれぐらい違うのだろうか・・・と。「あのクリスチャンはすごい」と言われているその人が、神様の目に同じように素晴らしいと思われているのかは、分からないですよね。今日の詩篇では、神様がご自分のもとに住むようにと、ぜひ招きたい人とは、どのような人なのかが語られています。「神に喜ばれる人」のことです。
それは、人々の前で良く見えるだけでなく、神の前で心もわざも真実であること。その心の真実が、ことばや人との関係に現れ、キリスト中心になっている人なのです。みことばから教えられましょう。
この詩篇15篇には、モーセ五書の道徳的な教えがみなまとめられていると言われます。確かに道徳的な教えが短い中によくまとめられている印象があります。しかし、よく味わうと、単なる道徳の教えではないと気づきます。心も含めて、神とともに生きる人の姿について明示されているのです。
1節 主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
神の幕屋、神の聖なる山。そこは神の御住まいのような場所。実際ここでは、「あなたの幕屋に宿る、あなたの聖なる山に住む」という表現があります。「宿る、住む」ということばですから、一時的にそこにいることではありません。神様とたまに会う人ではないのです。いつも、常時神様とともに生きている人ですよね。それはまさに、聖なる神様から喜ばれ、ずっと親しい交わりにある人です。それは具体的には、どういう人だろうかとダビデは問いかけを投げかけます。その答えが2節からの内容です。
2節 全き者として歩み 義を行い 心の中の真実を語る人。
「全き者」とは「欠点が一つもない」というよりも、「混じり気のない誠実さ」という意味合いが強いことばです。このあたりが、この詩篇における大切なポイントです。ミスをしない外側の完璧さではなく、心の誠実さです。ことばや行いだけでなく、人には見えない「心」においても、主のみこころに生きる人ですね。
例えば、人前では信仰深く見えるけれど、心の中ではそうではないという「二面性がない人」と言えるでしょうか。
その人は義を行うことを喜びとします。ただ神様のみこころがなるようにと願い、行動する人でしょう。そして、この世における立派な人と大きく異なるのは、「心の中の真実を語る人」と表現されている点です。表面的に「いい人に見える」ことではなく、心の内面がまっすぐな人です。内側から変えられている人なのですよね。
また、3節では「他の人を傷つけるようなことを言わない人」だと明かされます。
3節 舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。
これも、多くの人が見ている公の場というよりも、多くの人にはあまり見えない、分かりにくいところで、親しい人を傷つけるようなことばや態度を取っている人です。一見すると、悪くは見えないかも知れません。でも、私たちは主の前にいるのです。
ここでは特に、「友人に」あるいは「隣人へ」ということばがありますよね。実は、距離のある方との関りでは、制御しやすいものなのです。多くの人から嫌われることや、評価が下がることは誰もが避けたいのです。しかし、家族や親しい関係にある「身近な人」、まさに「身内」に対してはしてしまう・・・それが私たちの罪の性質です。「身内」という表現があるように、あまり目立たない、言われない限りバレない「身内」において、私たちの悪い部分が出るのです。
以前、チャーリー・ブラウン(スヌーピー)のセリフを紹介したことがありました。「ぼくは人類を愛している。我慢ならないのは身近な連中さ」と。身近な人ほど、お互いに対して赦せず、苛立ち、ムキになってしまう。問題が目につきやすく、あるいは比較しやすく、嫉妬も生まれやすい。そしてまた、「これぐらいなら大丈夫」と思っている。そうした関係性に甘えていませんか。社会では評判がいい。でも、家庭では、よく知っている身近な関係の中では、内心良く思われていない・・・そうしたことがあり得ますね。しかし、神の前に生きる人は、遠い人にも近い人にも、主の愛で接する者です。中傷をせず、悪を行わず、悪口を言わない人です。いや、身近な相手に対してこそ、その人の本質が現れます。その姿こそ問われているのではないでしょうか。「舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人」このような者になれるよう、祈り求めていきたいですよね。
4節 その目は 主に捨てられた者を蔑み 主を恐れる者を 彼は尊ぶ。 損になっても 誓ったことは変えない。 5節
利息をつけて金を貸すことはせず 潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。このように行う人は 決して揺るがされない。
神を無視し、神に逆らって生きる生き方に対しては、しっかりと「NO」を言える者。逆に、主を恐れて歩んでいる者には、明確に尊敬をもって見倣っていく姿勢。これは、長いものに巻かれるような、世渡り上手な生き方とは正反対です。
4節後半では、「損になっても 誓ったことは変えない」とあります。これらは神の人のとても力強く、美しい姿に思われます。なぜならば、この世においては多くの場合に、損得で物事を判断することがとても多いからです。何かをするならば、どんなメリットがあるのか、得になるのかを考えます。逆に少しでも損をしないようにと計算することがなんと多いことでしょう。損得で態度を変えていく。人の顔色を伺う表面的な歩みで溢れています。しかし、神を恐れるとは、見えない隠れた部分においても、主の前に誠実であることです。損得ではなく、みこころを大切にする。真実を大事にする。愛を尊ぶことです。
ところが、それが正しい、それが良いと思っても、自分には無理だという思いも起こります。身近な人にきつい言葉をぶつけることがあります。自分の利益を優先してしまうことがあります。損になると分かると、態度を変えてしまうこともあるでしょう。出来ない自分を恥ずかしく思います。説教者は人前でこれらを語ります。でも、残念ながら「私は出来ています」とは到底言えない自分を発見します。
だから、イエス様が必要なのです。ともにキリストを見上げたいのです。イエス様は、損得ではなく愛によって歩まれました。主イエス様がなさったことは圧倒的に損なことでした。彼自身は何も得することなどありませんでした。ご自分に何の得もないのに、罪ある私たちのために十字架にかかってくださいました。それでもなお、否定され、信じないと言われる。彼自身には何も得がない。ところが、神はそこに「愛」があると教えてくださったのです。何の得もしないことを、多大な犠牲を払って人のために喜んでなしてくださる。
私たちは、そのキリストによって神のもとに招かれた者です。キリストによって受け入れられた者だからこそ、神に喜ばれる生き方へと変えられていきたいのです。神に喜ばれる人とは、損をしない人ではありません。神を愛するがゆえに、時には損をしてでも真実を選び、愛することを選び、与えることを選ぶ人です。このように歩む人は決して揺るがされないと語られます。主はみこころを行う者が揺るがされるないようにされるからです。
人の目に映る良い人、良いクリスチャンではなく、主に喜ばれる者とならせていただきましょう。