*** 10/4(日)主日礼拝 説教概略 ***
サン・テグ・ジュペリの『星の王子さま』という物語の中に、有名な言葉があります。
「ものごとは、心で見なくてはよく見えないんだ。いちばん大切なものは、目に見えないんだよ」。
皆さんは、「愛」というものを目で見たことがあるでしょうか。「愛」そのものは見えないですよね。写真に撮ることも出来ません。手で触れて「ほら、あったかい♪」と感じられるものでもありません。しかし、病気になったときに看病してもらったり、悲しい時に一緒に泣いてくれたりする時、そこに愛を発見するのです。
また、友情や思いやり、希望も目には見えないですが、どれも人がイキイキと生きていくためには大切なものですよね。実は、私たちの人生は、こうした、目には見えないものによって支えられているのではないでしょうか。
しかし、その見えないものを悟る方法はあるのでしょうか。それが信仰なのです。
今日のみことばは、信仰は、将来待ち望んでいるものを保証し、見えないものをまるで見るように確信させるもの。そう語られています。このキリスト信仰は、見えない神を見るようにして生きるもの。そして、まだ起こっていない事を今ここに見るようにして生きるものなのです。改めて「信仰」とは何かを教えられます。また、この信仰がいかに私たちを支え豊かにするものであるか、教えられていきましょう。
1.この信仰とは何か
今日のみことばは、11章全体のまとめとも言えます。この章で「信仰」について、まとめてくれているのです。
1節 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
まず、信仰は、望んでいることを保証すると語られています。では、誰が・何を望んでいるのでしょうか。それは、神を信じる者たちが、将来与えられる救いの約束を待ち望んでいるということです。これは直前の10章34節以下で明らかです。神が約束された「永遠に残る財産」、「大きな報い」のことです。さらに11章の中でも、「天の故郷」「神の都」を望んでいるとも語られています。これらはすべて、神の国と救いの完成のことです。これらを手にすることを、クリスチャンたちは心から望んでいるわけです。
そして、これらはここにあるように、今は「見えないもの」です。まだ見ぬ未来に実現することですから、今は見えなくて当然です。ただ、それゆえ人は、不安になるのですよね。見えないので・・・。
しかし、それを唯一「見る方法」があるとしたらどうでしょうか?
それが「信仰」です。
信仰が保証するとありますが、この「保証する」とは客観的な「実体を与えるもの」、「確かな現実」を示すことばなのです。ですから、信仰はまさに「見えないものの実体を見える化して保証とする」と理解するといいでしょう。ないものが突然現れるのではありません。肉眼では見えないけれど、そこに確かにあるものを、見えるようにするのが「信仰」なのです。
この信仰に立つと、今、私たちの周囲にある愛や希望、友情、思いやり等を実感もできますし、それだけでなく、まだ見ぬ「未来のこと」さえ、今ここにある現実として生きる者とされて行くのです。本当に素晴らしい強さと豊かさを私たちにもたらしてくれます。これがキリスト者に与えられている「信仰」なのです。
2.信仰によって悟る
そして、この信仰は、見えないがそこにある真実を私たちに分からせ、悟らせてくれるのです。
3節 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
旧約時代の信仰者たちも、「おお、神様、マジ凄い!あんな風に造るのか!」と、神様のすぐ横で、その創造の一部始終を見ていたわけではありません。見ていないのです。しかし、神がそう語っておられるゆえに、造られた見える世界の豊かさゆえに、神の創造を信じて、そしてこの世界は神のデザインなのだと知りました。理解し、悟ったのです。ここでは、信仰によって悟るのだと語られています。この信仰の結果、この世界の本当の姿を正しく理解し、悟りを得ると教えているのです。この世界には見えない部分が必ずある。そこは、信仰によって悟ることが求められているのです。
それは、なんとなく感じる、そうだろうなと推測することではありません。「目に見える世界の背後にある神の現実を理解する」ことです。この世界がどのようなものなのかを、信仰が理解させてくれる。逆に言うとこうでしょう。見えないものを信じて理解しない限り、この世界の真実な姿は分からないままだと。実際そうではないでしょうか。見える部分だけですべてが分かるでしょうか。人はなぜ存在するのか。どこから来てどこへ向かう存在なのか。心は何のために与えられたのか。どこにあるのか。見えているこの世界の背後にあるものが、私たちにはまだまだ見えていないのです。
ヘブル書の語るこの信仰は、肉眼だけでは見えないところにある「神の現実」を深く見つめさせ、この世界の真実を理解させてくれる、そういう信仰です。
3.旧約の信仰者による証し
そして、この信仰に生きた旧約時代の人々は、この信仰のゆえに称賛を受けたと語られています。
2節 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。
これは旧約時代の信仰者たちです。彼らは「この信仰によって」称賛された。しかし誰からの称賛でしょうか。人でしょうか。実はこれは神様からの称賛です。ここで何より重要なのは、彼らの「行い」が称賛されたのではない点です。行いではなく、神を信頼する信仰が称賛されました。主がそれを喜び、良しとされたのです。これらの信仰こそが、私たち後の時代の者が倣うべき模範なのです。
興味深いことに「称賛された」という語には、「証しされた」という意味もあります。それで幾つかの英訳聖書では「良い証しを得た」と訳されています。良い行いをすることではなく、主への信仰によって生きること。これこそが、神様が多くの人に証ししたい姿なのです。まさに主が我々への「証し」として残したかったものです。信仰によって歩んだ旧約時代の人々の生涯。それを主は後世の者たちへの証拠、証言とされました。
実際、ここを読んだ読者たちは、大いに励まされたはずです!そして、それならばこうも言えるはずです。もし、私たちが「この信仰によって」今日を生きるのならば、それは周囲の人々、後の人々にとって必ずや、励ましをもたらす証しとなるということです。目には見えない神の約束とその祝福の未来を信じて歩む信仰は、どれほど人々に勇気と希望をもたらすでしょう。
1941年、アウシュビッツ強制収容所で一人の囚人が脱走しました。その報復と見せしめのために10人が選ばれ、餓死させられることになりました。その際、一人の若い男性が「私には妻と子どもがいる」と泣き叫んだとき、一人の男性が前に出ました「私をこの人の代わりにしてください」と。カトリック神父・コルベでした。そこでコルベ神父と9人は餓死の部屋に入れられました。普通なら、そこは絶望と恐怖の場所です。しかし、コルベ神父は仲間たちと一緒に祈り、賛美し、最後まで互いに励まし合いました。目の前にあるのは死でした。でも、コルベ神父が見ていたのは、死ではなかったのです。主にある永遠のいのちです。天の御国が彼の信仰の目には見えていたのではないでしょうか。彼は47歳の生涯を終えました。しかし、彼の信仰による生き様は、後の時代の人々を大いに励まし、勇気や感動を与える証しとなりました。
私たちの教会でも、礼拝で月1回、皆さんの証しが聴けます。私にとっては本当に大きな喜びです。「その証しを楽しみに礼拝に来る」とまで言うと言い過ぎですが、そう言いたくなるほど、皆さんの証しを聴けることが恵みだと感じています。それが励ましになるのは、良い行いの列挙ではないからです。弱さや失敗もありつつ、神様を信じて歩む信仰の証しだからです。だから、主役は常に神様です。永遠の勝利なるキリストの十字架です!だから励まされます!
私たちは今日、見えないものを見る信仰を教えられました。この信仰を学ぶとき、私たちが見える景色が一変します。「お金がない」という現実しか見えなかったのに、主の山に備えがあるという真実が見えてきます。もう与えられたと信じて先に献げてしまう信仰さえ生まれます。明日のことが心配でたまらなかった。でも、神の国とその義を求めれば、必要は与えられる。明日の心配は不要だと主から語られ、見えない明日が主にゆだねて平安のある明日に変わっていく。
私たちにとって、造り主である神様は、心から信頼できるお方です。いのちを捨てるほど愛してくださった主イエス様です。そして、いつまでも離れずともにおられると私たちは信じているのです!ですから、私たちが神を信じて、神にある将来の約束を信じて、今をイキイキと生きるならば、それが人々への証しになるのです。この信仰によって、神の臨在が他の人にも証しされ、この信仰によって未来の約束を信じる者の強さと豊かさが証しされるのです。