*** 10/25(日)主日礼拝 説教概略 ***
心理学用語で「バイアス」というものがあります。偏見や先入観のことです。自分が持つ先入観に合う情報ばかりを受け入れ、それに反する情報を無視したり、あるいは都合よく解釈したりする思考の偏りを誰もが持っています。
もっと簡単に言えば、自分が見たい物だけが見えるメガネをかけているようなもの。聞きたい音だけが聞こえるヘッドホンでしょうか。
例えば、私たちの場合、「神様はこういうお方であって欲しい」という思いにとらわれ過ぎると、それに合わないみことばを受け流したり、勝手な解釈で曲げてしまう危険があります。
エレミヤ書の時代の人々にも、こうした課題があったのではないかと考えられます。「私たちは神の民だから、異邦人のように滅びることなどない」とか、「エルサレムは神の聖なる都だから、何があっても滅びない」といった思い込みです。それが邪魔なのです。そうなると、「いや、このままだとあなたがたは滅びますよ。謙虚になって悔い改め、みことばに聞きましょう!」とのメッセージも入らないのですよね。「そんなはずはない!」と。
反対に「神はあなたを大いに祝福するであろう!」という話だと、「アーメン!」と喜んで受け入れることでしょう。
こうして、命綱とも言えるみことばを聞き入れないゆえに、多くの大切なものを失ってしまった人々でした。私たち誰もが、こうした課題があることを覚える必要があります。
ですから、心を柔らかくして、「分かっている」との思い込みから、「主に聞く」者へと変えられて参りましょう。 みことばは求めて聞く者にいつでも開かれています。
1.深刻な未来に対する警告
神様のおことばがありました。まず12節をご覧ください。
12節 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』 彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、
「酒壺に酒が満たされる」と主が言われる際に、人々がどんな応答をするかについて神様が触れておられます。当然神様は、民の反応を予知しておられるのでしょう。その反応とはどんなものでしょうか?12節の最後にあります。「分かり切っているではないか」です。分かり切っているという反応です。では、本当に彼らは分かっていたのでしょうか。
そうではありませんでした。実際の酒壺に酒が満たされるという意味は何だったのでしょう。驚くべきものでした。13-14節で、民にはっきりと語るように主が命じています。
13節 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14節 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに──主のことば──。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」
主が言われることは民の予想外でした。大量の酒で全住民を酔わせるという意味は、ここにあるように、神の裁きによって、国全体が混乱し、互いにぶつかり合って砕き合ってしまうことでした。実は、同じエレミヤ書の25章15〜18節にもよく似た表現があります。そこでも、神の怒りのぶどう酒の杯を国々に飲ませ、ふらつき狂わせよと主が命じています。 そしてそこでは「わたしが送る剣のゆえである」と、他国の侵略を匂わせています。戦乱の世となり、社会が乱れ、愛が冷め、やがて国が奪われていくのです。こんなに深刻な内容だったわけですから、「それはどういう意味なのか」と真意を尋ねるもせず、分かったつもりになるのはとても危険なことだと分かりますよね。それゆえに、こうして預言者にメッセージを届けさせるのでした。
神様はエレミヤを通して警告をなさっています。
15節 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16節 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。
命令形で記されているところは、誤解しようもない「神のみこころ」だと言えます。主が語られたのだから、「耳を傾けて聞きなさい」と言われます。しかも、暗闇が来る前にと。人生が暗くなる前に。絶望する前に。深刻になる前に。自分の正しさを主張するのではなく、あらゆる状況において「主よ、このことにおけるあなたのみこころは何ですか」と問いかける姿勢です。そして「高ぶるな」と続きます。「主に栄光を帰せよ」と続きます。
特に「高ぶるな」と短く命じられていますが、これは17節でも繰り返されていることです。こうした「高ぶり」こそは、先程の12節の「分かり切っているではないか」という発言と結びつくのではないでしょうか?
2.『分かっている』から『主に聞く』へ
ここで改めて、この『分かり切っているではないか』という民の反応について考えてみましょう。この部分は否定疑問文のようになっていまして、訳し方によっては「私たちが分かっていないとでも言うのか」というニュアンスにもなります。これらレスポンスを皆さんはどう感じますか。皆さんが神様の側なら。だいぶ生意気なレスポンスに感じますよね。
しかも、実際、恐ろしい滅びの話だと全く分かっていなかったのに、この態度ですから。そして、この姿勢こそが、主のおことばを捻じ曲げ、自分の心にまっすぐに届かなくする高慢の罪でしょう。
この「分かりきっている」との思い込みが、みことばを塞いでしまうのです。さらに、エレミヤはとても若い預言者でした。あの若造の言うことに「真新しいことなんてないのではないか?」、「我々の方が経験豊かだ」と、そんな驕りもあったでしょう。
若いから相応しいことを語れない。これも一種の偏見(バイアス)です。もちろん、もう年を取っているから民を導けない。これも??偏見(バイアス)。よく考えてみたら、聖書はこうした人間の世的な先入観(バイアス)をいい意味で打ち砕いてくれる書ではないでしょうか。小さな少年だったダビデが歴戦の兵(つわもの)・巨人ゴリアテを倒しました。ヨシヤ王は8歳で王となり20歳の頃には宗教改革を実施しました。反対に、100歳のアブラハムが子を残し、80歳でモーセは民のリーダーとしてエジプトと対峙しました。主に用いられるのに、和解も年寄りも関係ないと分かるのです。若いからとか、年寄りだからと侮るのは、主の力を侮ることですよね。
こうした様々な不信仰バイアス(色眼鏡)を神様に砕いていただきたいですよね。説教を聞く際にも、あなたの願望や思い込みを一旦脇におきましょう。また、神様に対する私たちの勝手なイメージもあります。毎日でも壊し続けていただきたいものです。説教慣れしているゆえに、この箇所は「こういう話だろう」と決めつける問題もあるでしょうか。むしろ0ベースで教えられようとする「ゼロの姿勢」こそ、新しい発見があるのではないでしょうか。
スポルジョンが書いた牧会入門という名著があります。彼はその中で、こんなエピソードを紹介しています。ある献身者の審査についてです。いくつかの質問がなされました。「あなたは宣教師になりたいのか」「主キリストを愛しているか」など。次に急にこういう質問がなされたといいます。「cat」のスペルを言えますか?志願者は戸惑いながらも丁寧に答えました。すると、次には、「dog」のスペルを言えますか?尋ねられました。他にも「2×2はいくつか」という問いもあったようです。大人の献身者の審査ですよ?一体何でしょう、これは。とても単純でばかばかしい質問に思えます。でも、これらに「忠実に応じられる謙遜さ」を持っているかどうかが問われていたのです。「分かり切っている。ばかばかしい」と怒るようでは、到底無理だと。そうでしょう。どんな容易に見える箇所でさえ、主のみことばを「分かり切っている」と、軽んじるような者にこうした主の働き人は難しいでしょう。
もしかしたら、簡単な話ほど、私たちの高慢さが現れやすいのかも知れません。皆さん、大丈夫でしょうか。簡単そうに見えることも、主の前に祈りながら丁寧に出来るかどうか。この姿勢が大事ですよね。もう何度も読んだ聖書のあの箇所。何度も聞いたあのエピソード。暗唱しているあのみことば。でも、そこにある神様のメッセージの奥深さを、私たちは本当に知っているのだろうか? そこにある深み、豊かさを求めているだろうか?
「主よ、お語り下さい。私はまだ何も分かっていません」。この祈りから始めていきたい。
17節 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。
エレミヤは感受性の強い預言者。神様の悲しみをまるで自分の悲しみのように感じる。全く同じとは言いません。でも、彼のこの涙を見るたびに、私たちは主ご自身の涙であるとも受け止めたいのです。私たちの色眼鏡を外しましょう。勝手なイメージに神様を閉じ込めないで。主のおことばに謙虚に聞いていく者となりましょう。
