東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/07/07

祭司の役目


 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる(出エジプト29:44

 出エジプト記2829章では、レビ族出身のアロンとその子らを祭司として仕えさせるための必要な備えが記されています。彼らが着るエポデには12部族の名が刻まれ、装着される胸当てには12の宝石(12部族を示す宝石)が埋め込まれています。この12の石はイスラエルの全12部族を現し、祭司が彼らを代表して神の前に出ていくことが意図されています。
 祭司は神に仕える者として、罪人の代表として立てられました
 聖い特別な人ということではなく、むしろ民の代表として罪の赦しを神に求めて祭儀を執り行い、民のためにとりなし(仲介し)、神のあわれみと助けを祈り求める存在なのです。それはこの民が「わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる(46)ためです。つまり、祭司は人々を神に近づけるための仲介役として立てられるのです。そして天に仕える真の大祭司キリストが来られた時、罪はことごとく赦され、信じる者すべてが大祭司キリストを通して神との交わりの座に回復することができたのです。なんという恵みでしょう!
(2019年7月7日 週報掲載)

2019/06/30

神の前に尊いものを尊ぶ


イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ16:15

 この世の人々が必死に追い求めているものは、富、名声、権力ではないでしょうか。しかし、神はこれらを愛することを嫌われます。なぜなら、これらは人が自分を誇るためのものであり、やがて朽ちていくものだからです。当時の旧約律法主義者なるパリサイ派の人々は、神を尊んでいるように自分を見せて、信仰的に正しい者であると主張していました。

 しかし、その中身を知るキリストは、「神はあなたがたの心をご存知」だと鋭く言われました。
 彼らはまさにこの世と同じものを求め、そこに身を置くことを喜びとしていたのです。それは偽善でした。本当に尊いものは、神ご自身が教えておられます。信仰、希望、愛、誠実さ、忠実さ、謙遜さ、勇気・・・どれも目に見えないけれど大切なものです。
 私たちは、神が尊いと言われるものを求めましょう。「求めなさい、そうすれば与えられます」とあるように、主が「求めよ」と言われるものを求めるならば、豊かにお与えくださることは明白です。真に尊いものを心から大切にしましょう。
(2019年6月30日 週報掲載)

2019/06/24

造り主を知り、安心して生きる


マタイ11:28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
現代人は常に疲れていると言えます。心も体もです。
 
当教会の集い「ほっとカフェ」は、そうした心身の疲れから少しでも解放される時となることを願うものです。
 
でも、それで終わりであって欲しくありません。
一時的に楽になっても、またしんどくなりますよね?
 

2019/06/23

神の臨在に触れ続ける


彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む(出エジ25:8

エジプトを出たイスラエルの民に対し、神は礼拝すべき場を備えてくださいました聖所を造らせ、祭司たちに仕えさせ、神へのささげものをし、絶え間なき神礼拝の恵みを与えてくださったのです。

それらは目に見えない神との交わりを可視的に知る恵みの場とされたのです。

神の契約の箱こそは、神の臨在そのものを現しました。
聖所を仕切る垂れ幕は神の聖さを人に理解させ、香壇からささげる香は神へのかぐわしい祈りと賛美、臨在のパンは日々の恵みへの感謝、そして神によってのみ人が生かされることを覚えるものでした。

燭台の灯は夜から朝まで燃やされ、闇を照らす光なるキリスト、またその油は聖霊を示すものでしょう。

この幕屋を中心として神の民は生活し、神の臨在に触れ続ける歩みとなりました。
まさに「わたしは彼らのただ中に住む」とのおことば通りです。

しかし、キリストが来られた時、これらは不要となりました。それは、これらが示したすべてがキリストに現され、完成したからです。私たちにはイエス・キリストがおられるので目に見える幕屋はもはや不要です。キリストから目を離さずに歩みましょう。

(2019年6月23日 週報掲載)
 
 


2019/06/18

教会の美しい姿


 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38
 
 ペンテコステの時、聖霊に満たされた使徒たちは人々に福音を語りました。その内容は「あなたがたが十字架につけたナザレ人イエスこそ、神の約束の救い主キリストである。」というものでした。
 これを聞いた人々は心が刺され、どうしたら良いのかと質問したのです。その答えがこの38節です。

 悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいというものでした。こうして救われ、キリストの名のもとに洗礼を受けた者たちには聖霊が注がれ、その交わりはみことばと祈りを大切にし、互いに重荷を負い合い、恵みを分かち合うものとなりました。

 その姿は見ていた民から好意を持たれる良いものでした。この恵みと真実に満ちた交わりによって、神の臨在を美しく現すことができたのです。こうしてキリストを信じて救われる人々が加えられたのです。教会は建物自体ではなく、その中で持たれる「愛の交わり」にこそ本質があります。

 教会に行った時に、信徒たちの姿、交わりを見れば、その教会の本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。「誰がやってくれるのか?」ではなく「みんなで一緒にやる」それが教会のあるべき姿です。
(2019年6月16日 週報掲載)

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