東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/07/14

お金では入れない天の御国



アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれか死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31


 主イエスは、金銭を愛するパリサイ人にたとえ話をなさいました。
 ここでは死んだ二人の人の異なる末路があります。金持ちは好き放題して暮らしていましたが、神を信じず苦しみの場「よみ(ハデス)」に導かれました。
 お金は天国への切符になりません。
 一方、貧乏人ラザロは生前苦しんでいましたが、神を信じて神のみもと「パラダイス」へ導かれました。金持ちはあまりに苦しいので、ラザロに助けを求め、生きている家族に「ここには決して来るな」と伝えに行ってくれと願います。
 ところが、それは無理なことです。
 さらに、神のことば聖書が与えられ、キリストのことを聞いても信じない人には、死者がよみがえって伝えに行っても信じないと語られます。その通りと思います。
 聖書以上の書はこの世界にありません。すべて書かれているのに、それを信じないならば、「私は死後の世界を知っています。伝えましょう!」という人が現れたとして、誰が信じるのでしょうか。

 お金では天の御国には行けません。神の救い主、イエス・キリストを受け入れましょう!
(2019年7月14日 週報掲載)

2019/07/09

子育て「時には嫌われても・・・」


 近年は「友達親子」という感覚が増えているように思われます。
 
 もちろん、そのような親しい距離感は悪いわけではなく、むしろ良い面が多いと言えるかと思います。仲良くコミュニケーションできるということ自体は良いことです。
 ただし、ここに大きな問題があることを社会も今気づき始めています。

20191月のNHK「けさのクローズアップ」にて・・・

2019/07/07

祭司の役目


 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる(出エジプト29:44

 出エジプト記2829章では、レビ族出身のアロンとその子らを祭司として仕えさせるための必要な備えが記されています。彼らが着るエポデには12部族の名が刻まれ、装着される胸当てには12の宝石(12部族を示す宝石)が埋め込まれています。この12の石はイスラエルの全12部族を現し、祭司が彼らを代表して神の前に出ていくことが意図されています。
 祭司は神に仕える者として、罪人の代表として立てられました
 聖い特別な人ということではなく、むしろ民の代表として罪の赦しを神に求めて祭儀を執り行い、民のためにとりなし(仲介し)、神のあわれみと助けを祈り求める存在なのです。それはこの民が「わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる(46)ためです。つまり、祭司は人々を神に近づけるための仲介役として立てられるのです。そして天に仕える真の大祭司キリストが来られた時、罪はことごとく赦され、信じる者すべてが大祭司キリストを通して神との交わりの座に回復することができたのです。なんという恵みでしょう!
(2019年7月7日 週報掲載)

2019/06/30

神の前に尊いものを尊ぶ


イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ16:15

 この世の人々が必死に追い求めているものは、富、名声、権力ではないでしょうか。しかし、神はこれらを愛することを嫌われます。なぜなら、これらは人が自分を誇るためのものであり、やがて朽ちていくものだからです。当時の旧約律法主義者なるパリサイ派の人々は、神を尊んでいるように自分を見せて、信仰的に正しい者であると主張していました。

 しかし、その中身を知るキリストは、「神はあなたがたの心をご存知」だと鋭く言われました。
 彼らはまさにこの世と同じものを求め、そこに身を置くことを喜びとしていたのです。それは偽善でした。本当に尊いものは、神ご自身が教えておられます。信仰、希望、愛、誠実さ、忠実さ、謙遜さ、勇気・・・どれも目に見えないけれど大切なものです。
 私たちは、神が尊いと言われるものを求めましょう。「求めなさい、そうすれば与えられます」とあるように、主が「求めよ」と言われるものを求めるならば、豊かにお与えくださることは明白です。真に尊いものを心から大切にしましょう。
(2019年6月30日 週報掲載)

2019/06/24

造り主を知り、安心して生きる


マタイ11:28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
現代人は常に疲れていると言えます。心も体もです。
 
当教会の集い「ほっとカフェ」は、そうした心身の疲れから少しでも解放される時となることを願うものです。
 
でも、それで終わりであって欲しくありません。
一時的に楽になっても、またしんどくなりますよね?
 

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *