東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2020/05/14

子育て 「怒りではなく懲らしめ(叱ること)」


 「怒りではなく懲らしめ

「わが子よ、の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
 父がいとしい子を叱るように、は愛する者を叱る。」(箴言3:11-12

 自粛生活が長くなると、一日中子どもたちが家にいてお母さんたちが一人になれる時間がないという課題があったり、また働くお母さんとしては家にお子さん一人でずっといることが心配であったり、学校給食がないので食事の用意の大変さがあったり・・・

 とにかく普段とは異なるストレス、イライラが起こりがちです。

 そんな時に神様のみことばに耳を傾け、教えられるならば少し違った視野が開かれ、落ち着きが与えられます。
 
 ここでは「懲らしめ」「叱責」「叱る」という3つのことばで、神様が人を教え導かれることを教えています。

 その目的は成長してより良い者になることす。

 人には本能的に「良くなりたい」という願いがあります。

 少しでも成長して、ちょっとでも良くなると私たちは嬉しいですよね。
 その良くなるために主なる神さまの愛から出ている「懲らしめ」や「お叱り」を受け入れなさいと言われているのです。

 実に教え導く者こそ、神様から謙虚に教えていただく者になることが成長の第一歩です。まず自分自身が、人生の手引書である聖書から、私たちも子どもたちも造られた神様から教えを受ける者になることこそ、Good Mom、Good Dadへの近道です。


 それと同時に、このみことばは私たちが親の立場であると考えた時に、一つの良い模範なのです。私たちは子どもたちを注意する時にどうしているのでしょうか?

 皆さんに考えていただきたいのは、「懲らしめ」や「叱る」ことと「怒る」こととはどう違うのか?ということです。
 
 「怒る」というのはより感情的です。悪に対する正義の怒りは聖書も認めており、必要なものと教えています。でも、そうでない怒りがありますよね?
 自粛生活でイライラする。ストレスをためていて。相手の行動が気に入らなくてイライラ。感情で怒りをぶつけることは指導とは言わないのです。

 それは「自分のため」だからです。

 ちなみに「懲らしめ」というのは、ネガティブなイメージがあるかも知れませんが、その意味は「悪い事をした人に罰を与える等して二度とそうしないようこらしめる」ということです。ですから、悪くないのに自分がイライラして感情をぶつけてしまうのは懲らしめではないわけですよね。また、不適切なほど怒ってしまうこともそうでしょう。

 最初に学びましたように、懲らしめ・叱責の目的=その子が良くなることです。
 子どもたちのしつけのために神様から教えられているのは、愛をもって落ち着いて「懲らしめること」「叱ること」なのであって、怒りをぶつけることではないということ。

 「いとしい子」「愛する者」とみことばにあるように、感情ではなく愛によってなすのです。

 昨日の祈祷会メッセージでも、感情を「悪魔のしもべ」にしてはダメですよ~というお話をしました。感情も神様がくださっている良いもの。だからこそ、罪の道具、悪のしもべにしちゃいけない。

 だからこそ怒りを上手におさめて、愛の心で叱り指導するということに心を留めましょう。祈ってから叱るという習慣がつくと良いかもしれません。

 私もよくしくじっています。
 感情的になってキレても、相手には「怖かった」という記憶だけが残り、中身が残らないということがあります。逆に、怒りが現れているにしても、きちんと相手を心から思い、愛するゆえの情緒であるならば、それは相手に良いメッセージとして伝わります。本気で自分を心配して叱ってくれているんだなというのは、その時は受け止められなくても、少し冷静になった時に心の深いところに残っているものです。

 自分のために「怒る」のではなく

 子を愛して「叱る」を大事にしましょう。

※他の「子育て」についての記事はコチラ


2020/05/13

Ⅱサムエル記 3章12~39節「感情を誰のしもべにするか?」

*** 5/13(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記312-39節感情を誰のしもべにするのか?

 イエス様を信じたばかりの頃に、安定したクリスチャンライフについて学びをしていただきました。それは感情によって自分を引っ張っていく生活は安定しないということ。ジェットコースターのように上がり下がりする日々。感情は客車を引っ張ってくれる機関車にすべきではないのです。客車を引く機関車は「神の真実」であり、それを信じる信仰がその後に続き、最後に感情が「神のしもべ」として着いてくる。それが安定したクリスチャン生活の秘訣だと学びました。もちろん、学んでも失敗ばかりですが、感情に流されて動いてしまった結果として思い出されるのは、大失敗の記憶ばかりです。主が下さった「感情」を誰のしもべとするべきでしょうか?神のしもべとしましょう。

2020/05/06

Ⅱサムエル記3章1-11節「良い信頼関係を持つ」

*** 5/6(水)祈祷会説教概略 ***

2-5節では、ダビデ王がヘブロンに滞在していた7年半の間に生まれた子どもたちのことが記されています。6人の男の子たちの名前が記されていますが、なんとそれぞれ母親が違うことがわかります。子孫を残すことが非常に重要だった当時の習慣においては、側室や妾がいることは珍しいことではありませんでした。しかし、こうしたダビデの性に対する奔放さゆえに、後に多くの悲劇が起こっている事は見落とせない事実です。事実、2節に出てくる長男アムノンは、3節に出て来る三男アブサロムに殺されるという大事件が後に起こります。1人の男性と1人の女性がお互いを大切にすることこそ、神様のみこころであり、そこに与えられた子どもたちにとっても一番の幸せであると教えられます。

2020/05/05

花を見よう


長引く自粛生活の日々の中で、いつの間にか季節が変わり初夏の陽気に汗ばむ日々となっていますが、皆様はどのようにお過ごしでしょうか。

鳥の声、花の香り、風の音

それらを味わい楽しむ機会はあるでしょうか?


教会の外看板の下には、小さな花壇コーナーがあります。
花壇を備えておいて良かったな・・・と思う今日この頃です。


ご奉仕くださる方々によって、季節により色とりどりの草花を楽しめることはなんと幸いなことでしょうか。

主イエス様も人々を前にして、空の鳥を見なさい、野の花のことを考えてみなさいと語りかけ、そこに示されている神様の優しさや養いの豊かさに気づかせてくださいます。

マタイ6:28-31
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。


心配ばかりの日々です。
けれど、野の花は明日の心配に追われて、必死にお金を勘定して、その結果を見て花を咲かせよう!などとは一切考えていません。

ただ、神様がふさわしい時に蕾を開かせてくださるままに、その身をただおゆだねして、美しい花を咲かせているのです。その期間は決して長いものではないのですが、彼らはその美しさをもって神をほめたたえ、人には慰めや励ましをもたらしているのです。

下の写真は、先日教会で花開いた胡蝶蘭です。


実は、一年前の献堂式のお祝いにいただいたものでした。
花びらが散り、すっかり何もなくなった状態でしばらくの時を過ごしていました。

もう咲かないだろうかと半ばあきらめておりましたが・・・
一年の時を経て、なんと花を咲かせたのです。

これもまた、あきらめずにお世話してくださった兄姉の愛と忍耐の賜物。
そして、神様が私たちを励まそうとこの時期に咲かせてくださったのだと、その恵みに感動し感謝を覚えています。


私たちが思うよりも神様の備えておられるいのちの輝きは強く、あきらめずに時を待つことの大切さを教えられています。

これらの花を見る時、心配ばかりしている私たちに

「心配ないよ。私たちを見てごらん。神様のことがわかるでしょ?」と

草花が語りかけてくれているようです。


※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。

2020/05/02

ヨハネ15章18-23節「他の人ではなく、あなたが!」

*** 5/3(日)礼拝説教概略 ***

ヨハネ1518-23節「他の人ではなく、あなたが!

 色々な部分で不自由や不便を感じながらの生活ではないかと思います。早く共に集まれる幸いな日々を主に祈り求めたいものです。

 そのような生活の中で、様々な「違い」が生じています。

 ある学生はオンラインでの授業がある。ある学生は一切そういうものがない。

 ある人は在宅ワーク、ある人は普通に現場で働かざるを得ない。

 ある自治体は様々な優遇措置がある、ある自治体はほとんど何もない。

 こういった状況の中で「あっちはいいなぁ!」「あの人はなんで?」と比較してしまい、優劣をつけやすい状況が生まれているように思います。

「あの人はいいなぁ」「あの人たちはダメだなぁ」と見ているとき、私たちは一体どこを見ているのでしょうか? 

 すべての背後には愛と正義に満ちた主なる神さまがおられます。一部分だけを見て比べ合うことに力を注ぐのではなく、「私は今日どのようにイエス様と共に歩むのか」とそこに心を向けて歩みたいものです。

 本日は、与えられたみことばを通して、よそ見してしまうのではなく、主イエス様に目を注いでついて行くことをともに教えられて参りましょう。



1. 新たな宣教の使命

 本日のみことばですが、死からよみがえられたイエス様と弟子ペテロの対話の場面です。先週の続きの場面になっています。イエス様は、挫折したペテロがもう一度立ち上がって、宣教の使命に献身していけるように、これからの道を示されました。

18-19節前半
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。

 これはやがて彼が自由を奪われ、やがて殉教することを示すおことばでした。
 19節にあるように、彼は最後、迫害の中でその生涯を終えます。伝承によれば、ローマ皇帝ネロの迫害の中で、「逆さ十字架」にて生涯を閉じたと伝えられています。

 「逆さ」というのは実は彼が望んだことで、イエス様と同じでは恐れ多いということがあったとされます。伝承ですので、真偽は分かりませんが、復活後のイエス様と出会って変えられ、命がけで宣教していった事は確かであると言えます。それは、もはや自分自身のためではなく、「キリストのために生きてキリストのために死ぬ」ということでした。

 人は必ず死を迎えますから、自分が信じるコトのために悔いなく感謝して死を迎えるとするならば、それは尊い人生だと言えるのではないでしょうか。そしてペテロを初め、多くの弟子たちが逃げることなく命をかけて宣教してくれたことのゆえに、今や世界中にキリスト信仰が広がっていることを感謝したいですよね。

 イエス様はペテロにこれらのことを伝えた後、19節の最後でこう語られました。

 こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 

 今度こそ、どこまでもイエス様について行くということです。同伴者となってくださる主イエス様と親しく歩み、主よ、今日はどこに行きましょうか?明日はどうしましょうかと共に歩むことです。



2.よそ見してしまったペテロ

 さぁ、もうペテロは何も迷わず!イエス様、あなたについて行きます!となったのでしょうか? いいえ。 ペテロにはどうしても気になることがありました。彼の弱さがまだここにあることが分かります。20節で彼はこんな風に反応しているのです。

20節 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21節 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
 
 どうして振り向いちゃうかな?とツッコミたくなります。

 せっかくイエス様と良い再会をし、「さぁ、あなたはわたしに従いなさい」という所で、「はい、今度こそついて行かせてください」と言えば良かったものを。

 残念ながら彼は振り向いて別の人を見てしまったのです。彼が向いた先は、同じように主イエス様にお仕えしている弟子ヨハネでした。

 ヨハネは、ここで自分自身のことを指して「イエスが愛された弟子」と表現し、最後の晩餐の時にはイエスのすぐ隣で胸元に寄りかかっていたことも語っています。

 最後の晩餐の時、ペテロは末席に座っており、ヨハネは給仕係としてイエス様の右隣に座っていました。このヨハネもまたイエス様の愛弟子の一人で、リーダー的存在だった一人です

ペテロはもしかしたら、ヨハネに対して劣等感を持っていたのかも知れませんね。

 先週少しお話したのですが、私たちには比べてしまいやすい立場の人というのがどうしてもいます。立場や年代や環境が似ている人とは比べがちですね。ペテロとヨハネはどちらもイエス様の内弟子であり、いつも一緒に行動していた二人でありました。お互いに、いつも気になり意識してしまう存在だったようです。

 少しその様子がわかる個所を同じヨハネの福音書から味わってみましょう。

 20:3-4です。これはイエス様が復活したというニュースがあり、二人が墓に向かって走った場面です。

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子(ヨハネだと考えられる)は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 

 この福音書の著者がヨハネですので、自分の名前をあえて出さずに「もう一人の弟子」と記しています。今日のみことばでも「主が愛された弟子」という表現でした。

 この時、著者ヨハネはペテロより自分の方が足が速かったので先に墓に着いたと語っているわけです。

「足が速いので先に着いた」これはわざわざ書かなくても良いんじゃないかと思ってしまいますが、お互いに意識していたという事をさりげなく表現しているのかも知れません。

 ですから、ペテロは他の人のことはもうクリアしたとしても・・・このヨハネのことは最後まで意識してしまった。友でありライバルのような存在だったのかも知れませんね。私たちにも、そのように意識してしまう人の存在があるかも知れません。

 大事なことを話しているのに他の人の方を気にしてしまうペテロに、イエス様はどのように語られたのでしょうか?

22節 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 これが主の答えです。

 イエス様は当然、すべての弟子を愛しています。そして当然、弟子だけでなく、すべての罪人を愛しているからこそ十字架におかかりになりました。ですから、イエス様がヨハネの長生きを願うとしても、それは当然であり、またペテロが気にすべきことではありませんでした。

 それでもペテロは、自分はやがて逮捕され殉教するという話を聞いて、じゃあ、あのヨハネ、彼はどのような半生をこれから送るんだ?と気になったのでしょう。

 でもイエス様は、「他の人のことは関係ない。そこじゃないんだよ。他の人がどうこうではなく、わたしの前にいるあなたがわたしに従うこと。これがわたしの願いです」とおっしゃったのです。

 実はこの22節における強調点を文法的に分析すると「あなたは」ということばに強調点があります。後ろを振り向いて、あの人はどうなのですか?とヨハネばかりを見てしまったペテロに、イエス様はご自分の方を向けさせ、他の人ではなく「あなたが!」わたしについて来なさいと言われたのです。



3. 私たちの応答

  私たちはすぐに優劣を競ってしまいます。本当に愚かだと分かっていても、比較してしまい劣等感に陥り、あるは優越感に陥ります。あるいは比較によってさばき合うことが生まれます。

 なぜか自分ばかりが大変な試練に見舞われているように感じます。

 なぜ私ばかり?あの人はなぜ「のほほん」と生きているの?
 
 私の方が罪深く未熟だからですか?だから試練が多いのですか?
 
 あの人はどうなのですか?あの人も罪人ではないのですか?と。
 
 
 しかし、それぞれに与えられている賜物が違います。役割が違います。用いられ方が違います。
 イエス様から与えられた「召し」は人それぞれだと言えます。

 もちろんすべての人が、神の良い働きの一部を担うことに違いはありません。けれども、その中で果たす役割はそれぞれ違っていていいし、優劣をつけるものではないのです。
 
 ペテロは宣教者として最前線で歩み続け、最後の彼の大切な役割はキリストのために死ぬことでありました。彼の生涯は波乱万丈で大きなインパクトを残したことでしょう。多くのキリスト者を励まし心を燃えさせる生涯だったことでしょう。

 しかしヨハネの使命は、長生きして、そのゆえに彼が見て来たもの、聴いてきたもの、その手で触れてきたものを整理して記録に残すことにありました。ペテロほどの波乱万丈な生涯ではなかったかも知れません。しかし、彼の残した福音書や手紙はキリストの姿をイキイキと描き、またその愛の深さを教えられるものでした。

 他の人がどうであるかではなく、イエス様は「あなたは、わたしについて来なさい」と言われるのです。よそ見をして、あの人はどうなのか?あそこはどうなのか?そこにあなたの心が分かれてしまうのならば、なんともったいないことでしょうか。

 主イエス様は今日、他の人ではなく、あなたを招いておられます。


2020/04/29

第Ⅱサムエル記2章8節~3章1節「神に従うのか、自分の心に従うのか」

*** 4/29(水)祈祷会説教概略 ***

自粛要請が続いており、今年のG.W.は皆さんあまりお出かけもできず、少し残念ですね。

けれども、普段はできないようなことが出来る機会でもあります。みことばに親しみ、賛美の動画を味わったり、静まって祈る時間を大切にしてはどうでしょうか。

教育関係者はこの機会に9月の入学・開始という提案も出ていますね。簡単ではないですが、世界基準が9月ということや、入試の時期がインフルエンザ等が流行る時期であることを考えると、可能性はありなのかなと思います。今回のようなコロナ騒動が起こる可能性が高いのはやはり冬の季節でしょう。

今日も祈りと賛美とみことばの時間をともに持ちましょう。

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *