私たちは無意識のうちに、「神不在」のままに神の国の働きをしてしまうことがあります。神様のみこころに聞かず、神様のみわざに目を留めず、神様への感謝も失うのです。それはどのようにして・・・でしょうか。
自分の常識、自分の経験、自分のやり方に固執し、神に尋ね求めないということによってです。しかし、みことばはまことの王を無視しないで、この方を心から恐れ御前にひれ伏し、この方に従う者こそ幸いだと教えています。主の御前にへりくだって、この方の御声に聞いてまいりましょう。
この2篇は3節ずつ、そして4つのブロックから構成されています。
最初のブロックは神に逆らう諸国やその民、王たちの反乱計画が語られています。
1-2節をご覧ください。
3節
「さあ 彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」
「かせ」と「綱」は、「神のご支配」や「神の教え」のことです。それらを自分たちから自由を奪う「かせ」や自分たちを束縛する「綱」だと思ってしまう世の人々の声です。それはとても残念ですよね。そこにある主の愛も、深く豊かなご計画にも目を留められていないからです。神が良いお方であると信頼しない時、その教えも、その導きも、人には束縛に思えてしまうのです。私たちもしばしば、主の教えを喜ばず、自分の思いや考えこそが最善と思い込んでいないでしょうか。神への信頼がないゆえに、勝手に窮屈になっているのです。
4節では、場面は地から天へ移ります。
4節 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。
そのようなむなしい企みに生きる人間たちを、神は天の御座に座ったままで、笑って吹き飛ばすような力ある方です。圧倒的な力の差です。人はこれを知る必要があるのです。さらに主は、5節で激しい怒りのうちに彼らを恐れおののかせると語られています。続く6節ではこうあります。 「わたしが わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山 シオンに。」
シンプルですが権威に満ちた主のおことばに感じられないでしょうか。「わたしが立てたのだ」これで十分なのです。神様はダビデの子孫として御子なるキリストをシオン、つまりダビデの町にお立てになりました。国々が何をわめこうと、王が何を企もうと、神は何も妨げられるがありません。ただご自身のみこころを行うのです。それは揺るがされないのです。
7節
「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日
あなたを生んだ。
新約の時代になり、神様は予定通り、妨げられることなくご自身の計画をなさいました。イエス様が洗礼を受けた時、天から声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と(マタ3:17)。父なる神様自らが、イエス様をご自身の子であると宣言したのです。このイエス様には8節にあるように、世界の一切の所有権、支配権を与えられました。9節では「鉄の杖」とあります。それは民を導いていく強い羊飼いであることを示しています。羊飼いは基本的に優しいイメージです。しかし、大切な羊たちを獰猛な獣から守るためには、その杖で力強く戦い、退けることもできるのです。
このように、神様は世のどんな国よりも強く、どんな王よりもまさる真の王イエス様を打ち立てられたのです。それゆえ、私たちはどうすべきなのでしょうか。
10-12節です。
10節 それゆえ今
王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ
慎め。11節 恐れつつ 主に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。12節 主が怒り
おまえたちが道で滅びないために。 御怒りが すぐにも燃えようとしているからだ。幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。
神様の怒りで滅ぼされないように恐れ慎み、このお方に従いなさいと語られます。自分の力と神の力の圧倒的な差を悟り、この方のもとに「ひれ伏せ」と語られるのです。ところで、11節の「震え」という言葉は「ギール」というヘブル語で、多くの訳では「喜べ」と訳されています。しかし新改訳2017年版は、この「ギール」に「恐れる」「震える」という意味もあること、また文脈や詩の流れ(並行法という技法が使われている)を意識して「震え」と訳し、「喜べ」という意味もあることを脚注に入れたのではないかと推測します。
ただ、私たちは主を恐れながらお仕えするにしても、主とともにあることを何よりの喜びとしたいのです。3節にあったように、主の教えを「かせ」や「綱」としないで、1篇にあったように喜びとしたいのです。それが幸いな人でしたね。実に、神を恐れることと喜びは決して矛盾しないものです。例えば、厳しい父親は子どもから見ると、威厳があって恐ろしくもあります。でも、その父が自分の味方でいてくれると分かると、尊敬とともに深い安心感や喜びがあるでしょう。敵対すれば恐ろしいのですが、その方を恐れ敬い親しく交わるならば、そこには従う喜びが豊かにあるのです。神を心から恐れ敬う者だけが得られる深い喜びです。ですからここで大切なことは、どんな時にも神を恐れ敬って歩むことです。そこにこそ真の喜びがあるのです。11節最後に「子に口づけせよ」とありますよね。御子イエスの御前にひれ伏し、心から従うよう語られているのです。
ですから、神のみこころの前に、自分の感性も考えも経験もひざまずかせる必要がありますよね。それが神を恐れて生きるということでしょう。 そしてそこにこそ幸いがあります。12節最後にこうあります。「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」と。自分のこだわる正しさや経験、それらに身を避けるのではなく、この圧倒的な力あるお方にこそ身を避けたいのです。このように人の企みや計画は、自分たちが思うほど力あるものではなく、それどころか弱いものです「幸いなことよ」と呼ばれるのは、自分の力や知恵に頼る者ではなく、身を低くして主に仕える者、主に身を避ける者なのです。