*** 4/26(日)主日礼拝 説教概略 ***
人を動かす手っ取り早い方法は不安を煽ることです。「今買わないと手に入りません」、「これをしないと大変なことになりますよ」など。私たちは、そうした言葉に動かされやすいのではないでしょうか。あるいは、人間が作り出した宗教においても似たアプローチが使われる傾向があります。「これだけやらないと救われないですよ」、「信仰が足りないから家族に災いが降りかかるのですよ」と不安で人を動かすのです。
しかし、聖書が語っているのはまったく逆です。神のわざを人間わざに置き換えてはならないと語ります。私たちが何を成したかではなく、キリストが何を成して下さったかなのです。そこに神の愛がある。それで福音は「不安を煽る知らせ」ではなく、人を本当に安心させる良い知らせなのです。そして、その救いの確信のゆえに、平安に満ちて嬉しくて人にこの知らせを届けたくなるのがキリスト信仰です。今日のみことばも、私たちに救いの確かさを教えてくれています。頑張らないと救われない、強い信仰がなければダメだと、強迫観念で人を動かすのではないのです。
では、私たちはどのようにして、その確信を持って歩めるのでしょうか。それは自分の感情に頼らず、自分の知識に頼らず、そして自分の信仰の強さにも頼らず、ただ神がくださる救いのプレゼントを受け取ることです。それは人の犠牲ではなく、神の子イエス様の犠牲による完全な救いです。本日は、キリストによる救いの確かさを三つの点から教えられます。その三つとは、1.場所の確かさ 2.質の確かさ 3.未来の確かさ です。
1.場所の確かさ(23-24)
なぜ、私たちの救いは確かなのか。その第一番目は場所の確かさにあります。
23-24節によると、キリストの十字架は、天にあるまことの聖所をきよめてくれたので、確かな救いをもたらしたということです。地上ではなく、天の朽ちない聖所なのです。23節では、天の聖所をきよめるためには、地上の聖所以上のいけにえが必要であったとあります。地上の聖所は写しや模型のようなものですから、完全な救いは成し遂げられなかったのです。ですから天の聖所をきよめる必要があります。しかし、その分、よりすぐれたいけにえが必要でした。唯一それが可能なのが、神の子イエス・キリストでした。24節にこうあります。
24節 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。
ここで心に留めたいのは「人の手で造られた」ということばです。キリストが来られる前は、人間の手による儀式でしかありませんでした。それは旧約聖書における制度の限界、不完全さを強調しているのです。ある教会の一人の婦人が牧師にこう相談しました。「私はどうしても信じられません」と。牧師は言いました。「誰を信じられないのですか」と。婦人はまた言いました。「どうしても信じられないのです」と。牧師もまた同じように尋ねました。「誰を信じられないのですか」。同じことがさらに繰り返され、婦人は最後にこう答えました。「自分を信じられないのです」と。
私たちはどうでしょうか。自分の信仰を信じているのでしょうか。それとも、神様ご自身を信じているのでしょうか。自分の祈りの力を信じているのでしょうか。それとも、祈りに応えてくださる神の力を信じているのでしょうか。「十分に信じられたら救われる」のではないのです。神の救いの力が十分なので、からし種ほどの小さな信仰でも救われるのです。聖書は語ります。行いによるのではない。ただ、神がくださる救いの恵みを受け取ることです。
私たちの救いは地上の不確かなものではなく、天における確かで完全なものなのです。
2.質の確かさ(25-26)
なぜ、私たちの救いは確かなのか。その第二番目は質の確かさにあります。
キリストは、なんと、たった一度できよめを成し遂げたからです。25節にあるように、地上の大祭司との違いは明確です。彼らは、毎年、何度も繰り返し、これを続ける必要がありました。毎年繰り返すのは、不完全だからです。修理を依頼しても何度も繰り返し修理しないいけないとしたら、それはその修理が不完全だからです。完全な修理ならば、一度直せばそれで長く使えるでしょう。同様に、イエス様の十字架の死と復活は、完全なみわざなので、何度も何度も十字架にかかる必要はありませんでした。ただ一度だけで良かったのです。
25節後半から26節です。
キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
それは回数の問題ではありません。決定的に違うのはその「質」です。動物のいけにえではなく、罪なき神の子が死なれたのです。だからその犠牲は完全です。最終的なものです。もうこれ以上、繰り返す必要がないのです。あえて表現するなら、旧約における人の手による犠牲は「罪を覆う」程度であったけれど、キリストは「罪を取り除く」救いを成し遂げられたのです。罪のトゲに対処療法で覆いをかけておくのではなく、罪についている「トゲそのもの」を全部取り去って下さる主イエス様の十字架なのです。感謝しましょう!
3.未来の確かさ(27-28)
なぜ、私たちの救いは確かなのか。その第三番目は未来の確かさです。
私は、イエス様を信じた時に教えられて驚いたことがあります。イエス様の十字架は、「君の過去の罪を赦すだけじゃない。今犯している罪、いや、これから将来に渡って犯すすべての罪に対する赦しなのだ」と。過去、現在、未来に渡るのです。イエス様の十字架は永遠のわざであると同時に、キリストは終わりの時に必ず再臨され、救いを完成してくださる約束があるので、未来もまた確かなのです。その完成とは、「朽ちない栄光のからだ」に私たちをよみがえらせ、永遠の神の国・新天新地へと導き入れてくださるものです。また、これまで私たちを惑わしてきた悪魔やそれ従う悪しき存在を完全に滅ぼし、神の正義と完全な平和をもたらしてくださるのです。27-28節にこうあります。
27節 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、28節 キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
私たち人間は、一度死ぬことと、その後にさばきを受ける定めがあります。そしてキリストも「一度」死なれました。しかし決定的に違うのは、人は自分の罪のために死ぬ定めでしたが、キリストは自分のためではなく、「多くの人の罪を肩代わりする定め(神のご計画)のゆえに」死なれた点です。キリストは、一度目に地上に来られた目的は死ぬためでした。しかし、二度目は世の終わりの時の完成のためです。必ず来られ完成させるのですから、私たちは将来に対しても平安が与えられているのです。もはや、「死よ、お前のトゲはどこにあるのか?」と勝ち誇りながら宣言できるのです。なぜなら、もう十字架において、死に至らせる罪のトゲは取り除かれたからです。苦しみも、罪も、死も終わり、喜びと平安のうちに神と永遠に生きるのです。
4.私たちはどのように歩むのか
皆さんは、終わりの時の神のさばきに対する確かな備えがあるでしょうか。この救いの確信があるでしょうか。神様は今日、みことばを通して、信じる者への確かな救いをお語りになりました。
1.イエス様は、地上の聖所ではなく天の聖所をきよめてくださいました(場所の確かさ)。それゆえに、私たちの救いは天につながります。
2.イエス様は、たった一度の十字架のみわざで完全な罪の赦しを成し遂げられました(質の確かさ)。ですから、もはや私たちは有罪判決を受けることがありません。
3.また、イエス様は世の終わりに再臨して、完全なさばきをもって悪を滅ぼし、正しい者の救いを完成させてくださるのです(未来の確かさ)。
この確信があるならば、私たちは必死に頑張る信仰から解放されるのです。正しくなければ、立派でなければ、頑張らなければ・・・という「~ねばならない信仰」ではなく、確かな救いを得て、心から平安のうちに歩めるのです。あまりに嬉しいからこそ、主にお返ししていく自発的な奉仕が生まれます。ですから、この信仰は不安に縛られて生きるものではありません。「これが足りないのではないか」、「自分はまだ不十分なのではないか」そうやって自分を不安にさせる歩みではありません。すでに救いを成し遂げてくださったキリストに、心から感謝し、信頼して従う歩みです。
私たちはもう聖とされました。確かな揺るぎない救いをいただきました。新しい者へと変えられたのです。不安と恐れの中で必死に背伸びをしなくていい。天国に行くために信仰を強くする日々ではありません。天国に行けることは既に確定しています。だからこそ、その恵みに心から感謝し、主イエス様に喜んでついて行くのです。
この確かな救いの中を、共に歩んでまいりましょう。
