東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル10章1-10節「あなたのみこころを行うために」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/05/17

ヘブル10章1-10節「あなたのみこころを行うために」

*** 5/17(日)主日礼拝 説教概略 *** 

 皆さんは、信仰生活を「ちゃんとやっている」はずなのに、心の深いところでは「渇いている」と感じることはないでしょうか。礼拝にも出席する。献金もしている。祈って聖書も読んでいる。奉仕もする。なのに、どこかで飢え渇きがある。心に力が湧かない。なぜでしょうか。形ばかりの宗教行為は、私たちの心を満たさないからです。それはもしかしたら、忙し過ぎて心を失っているゆえかも知れません。あるいは、外側ばかりを意識する習慣ゆえかも知れません。

 しかし主は、上辺ではなく心を見られます。いつも心を求めておられます。なぜなら、神は「愛」だからです神は愛のお方なので、神の愛なしには満たされない存在として人を造られたのです。 

 本日のみことばにおいても、神は動物のいけにえを喜ばれなかったと明らかにしています。主はささげた物や行為そのものではなく、神の御声に聞き従う愛の心を喜ばれ、それを祝されます。そして、神の御子キリストこそが、御声に聞き従う愛の模範となられ、同時に、その愛のゆえに、私たちの救いを十字架の上で成し遂げて下さったお方です。

 

1.律法の限界  

1-4節では、旧約における律法の限界について語られています。

1 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。 

 どの時代の人も律法をすべて守ることは出来ませんでした。また、律法自体は人を救うことも出来ませんでした。ここに「律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はない」と語られている通りです。

 ある学者は論文において、律法は「予備的なスケッチ」でしかないと表現し、それに対してキリストのみわざは「完成した名作」だと表現しました。下書きのようなものと、その完成された名作との間には、圧倒的な違いがあるでしょう。

 特に1節で「絶えず献げられる」とあるように、罪の赦しを願って絶えず繰り返されてきたものと分かります。繰り返しが必要なのは不完全だからでした。それどころか、3節にこうあります。

 3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。 

 罪を取り除けないだけでなく、繰り返さるからこそ罪が思い出されてしまったのです。自分の罪のせいで、また家畜が犠牲になった・・・。そのたびに胸が痛みます。このように、4節にあるように「動物の犠牲」では、罪を取り除くことは出来なかったわけです。それで、5節の「ですから」につながります。律法の動物の犠牲では不完全だった。ですから、キリストが来られ代わりにご自身を献げたのです。

 

2.キリストの従順と献身  

 5-7節では、キリストが来られた意味を説き明かしています。5-7節には詩篇406-8節の引用がなされています。この詩篇40篇のテーマが「従順と献身」でした。まさにキリストこそ、父なる神に誰よりも従順で、そしてまったき献身をしたお方。神のみこころを完全に満たし、完全な罪の赦しを与えるお姿でした。まず5節にこうあります。

5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。 

 この詩篇40篇はキリストの時代から1000年ほど前のもの。ダビデ王によって書かれたものと考えられます。しかし、この手紙の著者は、ダビデ王のこのことばを、まるでキリストのことばそのものとして提示します。しかも預言の成就がここにあり、違和感がありません。まさにキリストのために備えられていた預言的詩篇なのです。

 そして、何よりも神様の求めるものは、表面的なささげ物ではありませんでした。主は、どれだけ教えを守れているかに関心がありません。むしろ、形ばかり求め、心が遠く離れていることを悲しまれるお方です。ですから、本来神様が律法を通して人に求めていたのは、形ばかりのささげ物ではなく、心もからだも主におささげする「愛」です。

 5節の「わたしに、からだを備えてくださいました」の部分は、引用もとの旧約聖書では、「私の耳を開いてくださいました」となっていました。耳が聞こえるように備えられたのは、神の御声に聞くことこそが、神様が人間に求めておられることだった・・・ということではないでしょうか。人は、神の声に聞いて生きる時、まさに人として本来の輝きをもって生きることが出来るということでしょう。

そして6-7節にこうあります。 

6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 このように「神のみこころを行うために」、神である方が人となってくださいました。神の御声に聞き従う愛、それを行うために、キリストは受肉し人となられたのです。これらが整理され、まとめられているのが8-9節で、9節最後にこうあります。「第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです」。キリストの十字架がなされる時、旧約聖書にあった初めのもの、いけにえの規定は廃止されました。なぜなら、キリスト以上の犠牲は存在しないからです。ですから、何度も十字架は起こりません。ただ一度でした。

10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。 

 「聖なるものとされています」の部分は完了形です。それは結果の継続を意味します。イエス・キリストの十字架を信じた者は、すべての罪が赦され、聖なる者と既にされ、またその結果を失わずに継続して与えられているということです。なんと幸いでしょうか。

 

3.私たちの応答  

 このように、神様が求めたものは「ささげ物」自体ではなかったのです。私たちも誤解しがちです。どれだけ奉仕をしたか。どれだけ正しいことを成し遂げたか。どれだけ献金を献げたか。しかし、主が喜ばれるのはそれらではありません。

サムエル記 1522にはこうあります。
主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 

 主イエス様はこれをよく理解し、深く知っていました。父の本当の求めを誰よりも知っておられたのです。私たちも主の御声に聞き従うことを喜びとしたいのです。それは、教えを逐一守る行為ではないのです。主を慕い求め、主のことばを昼も夜も喜びとすることです。愛する人とは、いつも近くにあり、親しく語り合いたいのと同じように。あなたが神の前にいることです。神と語り合って歩むこと。いつでも神とともにいることを喜ぶことです。

オズワルド・チェンバーズも言いました。「神は、私たちが何かをすること以上に、神と共にいることを求めておられる。」 

 本当にそうなのです。しかし、人は間違いました。律法の理解も間違い、律法主義に陥りました。いけにえでは救われないのに、イエス様を信じず、自分の行いを信じました。マルタという姉妹を持つマリアは、忙しく「もてなし」をするのではなく、ただ一心にイエス様のお話に聞き入りました。これが「最上のもてなし」でした。それが主の望まれることだからです。神様の願いを無視しないようにしたいのです。私たちは自分の考え、自分の声で、心の中を騒がしくし過ぎなのです。今この瞬間に、皆さんの心の声をスピーカーに接続して流したら、確実に私のメッセージが聞こえなくなります。そういうことです。それでは主のさやかな声は聞こえません。もっと神様と仲良しになってください。イエス様の友になってください。自身の声はミュートにして、静かに主の声に聞きませんか。それがみこころを行うことです。

 みこころ「行う」とは、アクティブに行動することだけではないのです

私たちは「何かしていないと価値がない」と思いやすい。しかし主は時に「進め」ではなく、「待て」と言われます。「動け」ではなく、「静まれ」と言われます。実際、待つことや静まる方が大変なのです。でもそれが神の声なら従うべきです。イエス様はそうして、逮捕され、ののしられ、十字架につけられました。イエス様は抵抗しませんでした。ただ、父のみこころのままに受け入れ、十字架のみわざを成し遂げられたのです。

出エジプト記では、主が雲の柱、火の柱によって導かれました。その際、その柱が同じ場所にずっと留まれば、民もずっと留まるのでした。聖霊も「行け」と促す場合もあれば、「行くな」と止める場合もありました。神様は、あなたの働きより前に、あなた自身を求めておられます。どれだけ成し遂げたかではなく、「どれだけ主の声を慕い求めているか」です。間違えないでください。主は「まず、わたしの声を聞きなさい」と言われるのです。その声に耳を傾けながら、進む時には進み、留まる時には留まりましょう。

キリストの心である御霊によって歩むのです。神のみこころを行うために、主の御声に静かに聞き、この方とともに歩みましょう。

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