*** 5/13(水)祈祷会 説教概略 ***
この世界の多くの人が心満たされ、平安の中に歩むことを願っているでしょう。しかし、それを得る道は多くはありません。実際、どれだけ多くの物を所有し、どれだけの偉業を成し遂げても、心はむなしく空虚であると、何もかも持っていた王ソロモンは言いました。聖書は、神のもとで得られる満たし、平安は、他の物では代えられないと教えるのです。
本日は詩篇4篇から「神のもとにある平安」と題して教えられていきます。この詩篇もまた、ダビデが命を狙われ、追い込まれていた時のものと考えられています。しかし、8節にあるように、困難が続いても、やはり主のもとには平安があるのです。ですから、私たちの悩みも心配もすべて、正直に神様に持っていきましょう。主はそれらを平安に変えてくださるからです!神のもとにある平安を教えられて参りましょう。
さて、この詩篇4篇も、その背景にはダビデの息子アブサロムの反乱という出来事があると考えられます。多くの人が神が立てた王ダビデを捨て、より若く勢いと人気の出てきたアブサロムについて行ってしまったのです。ダビデの苦悩は計り知れません。
1節 私が呼ぶとき
答えてください。私の義なる神。 追いつめられたとき あなたは私を解き放ってくださいました。 私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。
「追い詰められたとき」という状況が示されています。それはまさに、愛する息子の反乱により窮地に立たされた時でしょう。しかし彼は主を呼び求めました。すると主は、追い詰められた状況から、解放してくださったのです。ここでは「狭い場所」から「広い場所」の解放が示されています。圧迫、閉塞からの解放です。裏切られ、誹謗中傷され、いのちを狙われた日々でしたから、神様が救いと解放を与えてくださったことは、本当に大きな助け、慰めでした。主がおられなかったら、ダビデは当の昔に絶望していたことでしょう。私たちも追い詰められることがあります。閉塞感の中で希望を見いだせない時があるかも知れません。でも、まず主に祈りたいのです。主は行き場もない閉塞状況から、開けた場所へと私たちを解放してくださるのです。視野が狭~くなっている時、主は広くて明るい世界を私たちに見せてくださるのです。
2節 人の子たちよ いつまで私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか。
人々は神が王として立てたダビデを辱めたのです。空しいもの、偽りとは、神が選んだのではない王でしょう。表面的な魅力に釣られて、主の立てた王をあっさり捨てたのです。これは新約聖書で、真の王イエス様に関心を示さず捨てる姿を想起させます。しかし、3節にあるように、ダビデは「知れ」と呼びかけます。何を知れと訴えるのでしょうか。それは、神はご自分が選んだ器を特別に扱われるということです。
それはこの場合、アブサロムではなくダビデでした。主は、神のみこころに逆らう王アブサロムの祈りではなく、神に従うダビデの祈りを聞かれるのです。私たちも主によって選んでいただき、そしてイエス様についていく道を自らも選んだ者です。主はその者を特別に扱ってくださるのです。主はご自分が選び分け、召し出した者のために、すべてを働かせて益としてくださるのです。ですから、どのような困難、閉塞状況でもあきらめずにこの方に祈り求めましょう。
続く4節にこうあります。
4節 震えわななけ。罪を犯すな。 心の中で語り 床の上で静まれ。
「震えわななけ。罪を犯すな」の部分は、七十人訳(旧約のギリシア語訳)では、「怒っても、罪を犯すな」とされ、また多くの翻訳でもそう訳されています。脚注にあるようにエペソ4:26でパウロが引用したのは、この箇所の七十人訳聖書であったようです。それは、「必要があれば怒るがよい。しかし、怒りに支配されて罪を犯してはならない」という意味でしょう。そのために、心の中で主と親しく語り、ベッドの上で静まり怒りを治めるようにということです。罪から守られるカギは神様との静かな交わりだと分かります。私たちの悩みも心配もすべて、主に信頼して訴え祈ることです。これこそが、私たちが様々な怒りや嘆きに勝利する道。そしてどんな状況でも平安をいただける道なのです。
詩篇全体を通して、実は人の負の感情を否定していません。むしろそれらを正直に神様に訴えているのです。聖書は「聖なる書」と書きますが、綺麗事を教えていません。生々しい人の嘆き、叫び、悩み、葛藤があふれています。私自身も怒りや悲しみであふれる時、そのままを神様に訴え祈ります。詩篇を読むならば、まさにそのような叫びや訴えであふれている。でも、それが神様への祈り、賛美、礼拝となっていることは慰めです。立派できれいな姿を繕わなくていいのです。心にあるままを打ち明けていいのです。
そして5節にこうあります。
5節 義のいけにえを献げ 主に拠り頼め。
「義のいけにえ」とは、形のある動物の犠牲ではありません。目には見えない、神様の前で誠実に歩むこと、そして神様に従う心です。主に拠り頼んで歩むことです。そこに喜びと平安があります。6-7節
6節
多くの者は言っています。 「だれがわれわれに 良い目を見させてくれるのか」と。主よ どうか
あなたの御顔の光を 私たちの上に照らしてください。
7節 あなたは喜びを私の心に下さいます。 それは 彼らに穀物と新しいぶどう酒が 豊かにある時にもまさっています。
多くの人は「だれがわれわれに
良い目を見させてくれるのか」とあるように、自分の利益ばかりを求めがちです。また、7節にあるように、穀物やぶどう酒といった物質的な満たしこそが幸いであるかのように求めます。古代ローマの哲学者セネカもこう言います。「貧しいのは、少ししか持っていない者ではない。もっと欲しがる者である」と。実際、どれだけ物が増えても、心に平安がなければ、人は満たされません。だからダビデは、「穀物と新しいぶどう酒」以上の喜びを、神が与えてくださると言ったのです。神様が心に下さる喜びは、穀物の収穫や新しいぶどう酒が豊かに与えられる時にはるかにまさるのです。他の何によっても得られない平安を主は与えてくださるのです。
8節 平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。 主よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます。