*** 5/10(日)献堂記念主日礼拝 説教概略 ***
本日は「献堂記念礼拝」です。かつては「自分たちの会堂を持つことは難しいのでは?」と思えた小さな教会でした。しかし、ヨナタンが言ったように、「大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」のです(Ⅰサム14:6)。なんと心強いことでしょう。むしろ、小さな者になされた大きなみわざは、神様の栄光を雄弁に証しするのです。
こうして主がお建てになった会堂ですが、既に7年が経過しました。会堂建設費用の返済も想定以上の早さで進み、あと3年ほど。多くの方の祈りとご協力に心から感謝します。そして、私たちの考えをはるかに超える主のみわざに感謝し、主をほめたたえます!しかし同時に、主は既に新しいことをなさっています。この会堂になってから集われるようになった方が本当に多くいらっしゃいます。半数近くがそうかも知れません。ですから、主はもう新しいことをここでなさっています。
19節にこうあります。「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」と。この地で与えられた恵みに心より感謝し、でも、それだけで終わらず、これからなされる主の新しいみわざに期待していきませんか。古くから集う者も新しく集う者も関係なく、ご一緒に主のなさることに胸を躍らせながら、皆で歩んで参りましょう。
1.かつての恵みに感謝しつつも
18節にこうあります。「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな」。ここで語られる「先のこと」「昔のこと」とは、出エジプトのこと。エジプトからの救いのことです。それらに「心を留めるな」とはどういうことでしょうか。それは「過去を思い出すな」という意味ではありません。むしろ、16-17節では、出エジプト時の救いのみわざを思い出させています。海を真っ二つに割り、道を造られたあの大いなる奇跡。何もない荒野で水や食べ物を豊かに与えたられた主のみわざ。それらはやはり素晴らしく、驚くべき恵みでした。ですから、それらの救いを否定せず、まずしっかり感謝するのです。
私たちも同様です。それぞれ個人においても、ここまで生かされ、多くを与えられて来た恵みを感謝する信仰を持ちたいのです。それが私たちを強くします。また、この会堂が与えられた恵みを皆で感謝し、これをなさった主をともに喜ぶことが、私たちの力になります。
しかしながら、みことばが示すのは、過去のみわざに感謝し喜ぶことだけではありません。これからなされる新しいことに期待する心を失わず、将来に向かって生きていくことを神様は示されるのです。「昔は良かった」と過去の檻の中に引きこもらないことです。なぜなら、過去を大切にし過ぎるあまり、無意識のうちに「神はあの時ほどには働かれない」と思い込んでしまう私たちだからです。
例えば、会堂建設の経験者は、この会堂が建てられた時ほどの奇跡や偉大なみわざは、もう残りの人生では体験できないだろうと思い込んではいないでしょうか。私はそう思ってしまっていた部分があります。それぐらい幾つもの奇跡を体験したからです。あるいは、過去のあの劇的な体験に、これから後の人生は勝らないと勝手に決めつけていないでしょうか。過去の出来事そのものに浸り過ぎると、今、現にここに起こる素晴らしいみわざを見過ごしてしまうのです。それは、神様を見ているのではなく奇跡や出来事ばかりを見ているゆえです。
イエス様の周囲のいた人々も、病の癒やしが起これば「癒しの力」を愛してしまう、あるいは、イエス様がパンを増やしてくれた時には、そのパンを愛してしまう誘惑があったのです。しかし大切なのは、それらをなさった主キリストご自身ですよね。今日は母の日ですが、お母さんが作った美味しい料理を愛するのではなく、お母さん自身を愛することが大切ですよね。私たちはいつでも、神様がくれた奇跡ではなく、神様ご自身を愛したいのです。ですから愛する主の声を聴きましょう。
主は言われるのです。19節。
2.新しいことをなさる主を見よう
19節 見よ、わたしは新しいことを行う。 今、それが芽生えている。 あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
私たちは過去のみわざを心から感謝します。しかし、主は、それらの過去だけで終わってはいけない。そこに留まり続けず「見よ」と言われるのです。わたしを見よ、わたしがしようとすることを「見よ」と言われるのです。
ただし、新しいことはワクワクもしますがやっぱり怖いです。未知のことは不安です。私も今、未知の働きや責任を与えられ、右往左往しています。評議員会とか理事会という場。あまり得意じゃない。そして皆さん、私よりほとんど年上。そこで新しく関係を築かないといけない。そういう場に行くたびに「孤独感」や「アウェー感」もあります。50のオジサンがまるで新人のように色々教えていただきながら、ミスをしながら過ごしているのです。「ひぇ~」と思います。
しかし、主は「見よ」と言われるのです。よく見てください。「見よ、わたしは新しいことを行う」とあります。誰がなさるのでしょう。あなたではない。主なる神様がなさるのです。だから大丈夫です!!神様ご自身が私たちの先頭を行き、導き、新しいことをしてくださるのです。出エジプト記13章21-22節をお開きください。
主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
見知らぬ土地の荒野を旅する神の民の先頭は誰でしょうか。神様でした。昼は雲の柱で暑い日差しから守りつつ、夜は火の柱で行く道を照らしながら、主が「彼らの前を進まれた」のです。彼らの前です。そして、22節では、「民の前から離れることはなかった」ともあります。どこに行っても主が先んじてくださり、どこに行ってもあなたを離れないのです。
イザヤ書43章に戻ってください。こうして主を見つめるならば、その声が聞こえてきます。「わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか」と。
私がまだ牧師になって数年の頃、ある信徒さんが私に言って下さいました。川の底に石を積んでいく時、川の中にあるうちは外からは全然見えない。でも、そこには確かに積み上げられているのだと。そのことばが、なぜかずっと心に残っていました。そして今、本当にその通りだと感じます。新しいことは、最初はよく見えません。小さな芽生えですから、見落としてしまう。しかしそこに確かに芽が生えている。それを大切にしたいのです。主は「あなたがたは、それを知らないのか」と問われます。芽生えていないのではない。もう芽が生え、生長しようとしている。主はあなたの前で道を備えている。歩みやすいように整え、その先の安全も確保し道が備えられている。なのに、私たちが後ろを振り返ってばかりいて、「見ようとしないゆえに見えない」ことがあるのではないでしょうか。あるのに味わえないのはもったいないです。
なぜなら19節後半から20節にこうあるからです。
必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。20節 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、 わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
こんなにすごい神様の新しいみわざを体験できないなんて、クリスチャンの特権を放棄しているようなものです。1億円の宝くじが当たったのに確認せず捨ててしまうようなもの。いや、もっともったいない。
荒野は不毛な悪魔が住処と言われる地。そこに道が造られる主です。また「荒れ地」は「砂漠」という意味を持つことばです。水気のないいのちなき地。そんなところにいのちの象徴である水、川を設ける主です。人だけでなく、動物たちも主をあがめるほどのみわざ!イスラエルの民は、出エジプトのみわざを皆知っていました。大いなる神様の奇跡です。しかし、それで終わりではありませんでした。それをなさった神様は、より優れた全人類の救いという「キリストの十字架のみわざ」を備えておられたのです!出エジプトを振り返ってばかりで、新約に進まず、イエス様の十字架を見ないなんて、こんなにもったいないことはないですよね?
私たちも出エジプトまで行って、また創世記の最初から読むのを繰り返してはいけない(笑)。ちゃんと新約まで進んで新しい救いを得る必要がある。
神様はこれまでに本当に良くしていただきました。まさに道なき荒れ地に、道を備えて下さいました。会堂のための土地は買ったものの、お金が足りないのでしばらく「空き地」でしたね。危うく青空礼拝かプレハブ教会になるところでした。でも、神様は必要をすべて満たし、しかも豊かに与えて下さいました。本当に驚きました。主は「空き地に会堂を建てられた」のです。 しかし、主はもっとすぐれた新しいみわざを、今ここにいる新しい民にしてくださるのです。あの頃とは異なる大いなる夢を主はさらに見させてくださいます。十字架まで進みましょう!!より多くの人が心から笑顔になれる道を。今までなら助けられなかった方々を助けられる「いのちの水の川」を・・・主は造ってくださる。
しかも、無理だと思える荒野や砂漠に。だからこそ、私たちは、恵みと愛に応えて前に進みたいのです。恐れて留まったり、後ろに下がったりではなく、主がなさる新しいことに目を向けませんか。前に進んで行きたいのです。主が先んじてもう備えておられるからです。そして、21節にあるように、主に造られ救われた私たちですから、この素晴らしい「主の栄誉」をますます宣べ伝えて参りましょう。主は語っておられます。
