「牧者たちは愚かで、主を求めなかった」と。牧者とは羊飼い、導き手です。しかし、それに従うすべての人の問題も含まれるでしょう。神である主を求めなかったのです。神の教えも、神の義も求めなかったのです。みことばも祈りも礼拝も、その集いも大事にしなかった。ですから私たちも、神様と主の教会を愛すること、礼拝や様々な集まりを大事にしたいのです。自分の都合ばかりを優先し、神のみこころを後回しにするならば、まさに「主を求めなかった」と言われても仕方ありません。結果、外からの破壊が訪れました。国を追われ、大切な人材を失い、安心して集う場も奪われました。すると、どうなるのか。21節後半。「それゆえ、彼らは栄えず、彼らが飼うものはみな散らされる」のです。そして、荒廃してジャッカルの住処とされていきます。ここから分かるのです。人は自分の人生を導けない。だから23節の告白に至るのです。
私たちの多くは「自分の人生」と考えてしまいます。自分で人生という車のハンドルを握りたいのです。しかし、主は言われるのです。「あなたがたの人生はアナタに属していない。ただ、神に属しているのだ」と。実際のところ、私たちは明日を知りません。未来が分からないのです。自分の心の制御さえままならないのです。だから、不安になります。怒りに支配されます。失望します。自分で元気にすることが出来ない不自由さを感じます。よく考えてみたら、世界中の誰もが、自分の人生を掌握出来ていないのです。つまり、私たちは自分を導く力を持っていないのです。しかし、ここに福音があります。聖書は別の箇所で語ります。
箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。
私たちはあれこれ理想を思い巡らしますが、その通りにできません。しかし神様はそれがおできになるのです。そして、神の御子イエス様こそが、不安定で迷子になってばかりの私たちのために、「道」となってくださいました。ヨハネ14章6節。イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」。私たちは迷い子です。しかし道が与えられたのです。主イエス様ご自身がいのちへの道、真理への道、父なる神への道なのです。それは幸いへと続く道なのです。
24節をご覧ください。
24節 主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。 「主よ、私を懲らしめてください」これは不思議な祈りです。しかしこう続きます。「御怒りによらず、公正をもって」。神の懲らしめは、滅ぼすためではありません。私たちを正しい道へと引き戻すためなのです。もし神が私たちを放っておかれたなら、私たちは滅びに向かって進み続けてしまいますよね。しかし愛の神である主は違うのです。本来、私たちが受けるべき怒りを、御子イエス様に十字架で負わせてくださったのです。だから私たちは、滅びではなく、いのちの道へと導かれたのです。
もう一度23節のみことばを味わいましょう。
23節 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
「人の道は自分のものではない」と語るのです。それは一見、悪いことのように見えるかも知れません。自分で思うようにならなのですから。しかし、実はとても大きな慰めなのです。
なぜなら、「自分で全部を背負わなくていい人生」だからです。神様が背負ってくださるのです。会堂建設は、私の牧師人生においてもかなり大きな決断でした。規模も小さな教会。経済的にも小さい。到底できないように思える。決して小さな決断ではありませんでした。しかし、神様から示されたことは、主がお建てになることだということ。そして、建っても建たなくても関係ない、ただ私は神様を愛し、神様とともに歩む牧師であれば十分だということでした。自分で全部を背負わなくていい。主がおられる!もし自分で全部を導こうとすれば怖くて不安です。
しかし神様にすべてを委ねるなら平安があります。これは本当に幸いなことです。ですから私たちはいつでも、主とともに歩めばそれで大丈夫です。ですから、ただこう祈りましょう。「主よ、私の人生をあなたが導いてください」と。 自分で道を確かに出来ない私たちに、主は確かな道を備えてくださるのです!!安心してこの方について行きましょう!
