東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書10章12-25節「迷い子のあなたを導く方」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/05/04

エレミヤ書10章12-25節「迷い子のあなたを導く方」

*** 5/3(日)主日礼拝 説教概略 ***

 私たちは、自分の力で人生を良い方向へ導けるでしょうか。実際そう願って、日々悩みながら様々な決断をしています。しかし、どうでしょうか。思い通りにいかないことの方が多いですよね。良いと思って選んだ道なのに、なぜかうまくいかない。頑張ろうと思うのだけれど続かない。そして、予想もしなかった出来事で計画がまるで崩れてしまう。



 使徒パウロでさえ、こう告白していますね。「したい善を行うことができず、したくない悪をしてしまう」と。私たちは、自分の心さえ思うようにできません。まして、人生全体を導くことができるのでしょうか。それにもかかわらず、私たちはどこかでこう思っています。「私の人生は私のもの」「自分で何とかできるはずだ」と。しかし、みことばは語ります。23節。

主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。 

 私たちには明日が分かりません。自分の体調管理さえ思うように出来ない。人生の迷い子です。ですから、すべての人の「良き羊飼い」である神様に、人生を導いていただきましょう。

 

1.世界を治める方  
12-13節には、この世界を造られたまことの神がどのようなお方なのかが語られています。

12 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。13 主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。 

 世界は偶然出来たのではありません。宇宙も地球にある一切も、神様が力と知恵をもって造られたのです。13節では雲、雨、稲妻、風、すべてが神の御手の中にあると語られます。私たちは天気を予測することはできますが、それらを操ることは出来ません。神はそれらを止めることなく豊かに管理しておられます。

 それに対して14-15節では人の手で造られた偽りの神々、偶像が語られます。

14 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。15 それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。

 それらは「息がなく」、「空しく」、「物笑いの種」とされ、「滅びるもの」だと語られています。ここで大切なのは、「造られたもの」「造られた方」の違いです。確かに私たちは、木や石の偶像を拝むことは少ないかもしれません。しかし、お金や身に着ける物、体の強さや世間の評価。こういった被造物を神のように頼っていることはないでしょうか。私も新車が傷つけられたとき、新会堂のドアガラスが破損したとき、強い怒りがこみあげました。ただ、そのとき神様が私に問いかけて下さいました。「それらはわたしより価値がある存在か」と。

 16節に目を留めてください。「ヤコブの受ける分」はこんな「空しいもの」ではないと語られています。車も会堂も立派な良いものでしょう。でも、錆びたり朽ちたりし、失われるものです。神を信じる者が受けるものは、すぐに朽ちていく空しいものではないのです。永遠に残る尊いものを主は下さいます。

 

2.神を離れた現実  

 17節からは、神から離れた人生の現実が語られます。17節では荷物をパッキングして国を出る準備をせよということですが、それは18節にある通り、国を失うからです。それゆえ19節で民の嘆きが響きます。「ああ、私は悲しい」と。この民は皆、神から離れた結果、このように嘆かざるを得ない状況になるのです。本来は早くこの現実に気づき、悔い改めるべきなのですが。続く20-22節では、その崩壊の苦しみが現実として広がっていきます「天幕は荒らされ」「綱は断たれ」「子どもたちはいなくなった」と。生活も、支えも、次世代の未来もすべてが崩れていくのです。そして21節で、ついにその原因が明確にされます。

牧者たちは愚かで、主を求めなかった」と。牧者とは羊飼い、導き手です。しかし、それに従うすべての人の問題も含まれるでしょう。神である主を求めなかったのです。神の教えも、神の義も求めなかったのです。みことばも祈りも礼拝も、その集いも大事にしなかった。ですから私たちも、神様と主の教会を愛すること、礼拝や様々な集まりを大事にしたいのです。自分の都合ばかりを優先し、神のみこころを後回しにするならば、まさに「主を求めなかった」と言われても仕方ありません。結果、外からの破壊が訪れました。国を追われ、大切な人材を失い、安心して集う場も奪われました。すると、どうなるのか。21節後半。「それゆえ、彼らは栄えず、彼らが飼うものはみな散らされる」のです。そして、荒廃してジャッカルの住処とされていきます。ここから分かるのです。人は自分の人生を導けない。だから23節の告白に至るのです。

 

3.人の歩みを確かにする方 

23節のみことばに心を開いて聞きましょう。

23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。 

 神に立てられた預言者エレミヤは知っていました。人間の道を平和で幸せな良きもの、確かなものにするのは、人ではなく神であると。いや、神様だけが確かにできる唯一の方なのです。「確かにする」とは、正しい良い道に安定させるということです。

 私たちの多くは「自分の人生」と考えてしまいます。自分で人生という車のハンドルを握りたいのです。しかし、主は言われるのです。「あなたがたの人生はアナタに属していない。ただ、神に属しているのだ」と。実際のところ、私たちは明日を知りません。未来が分からないのです。自分の心の制御さえままならないのです。だから、不安になります。怒りに支配されます。失望します。自分で元気にすることが出来ない不自由さを感じます。よく考えてみたら、世界中の誰もが、自分の人生を掌握出来ていないのです。つまり、私たちは自分を導く力を持っていないのです。しかし、ここに福音があります。聖書は別の箇所で語ります。

箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。 

私たちはあれこれ理想を思い巡らしますが、その通りにできません。しかし神様はそれがおできになるのです。そして、神の御子イエス様こそが、不安定で迷子になってばかりの私たちのために、「道」となってくださいました。ヨハネ146イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」。私たちは迷い子です。しかし道が与えられたのです。主イエス様ご自身がいのちへの道、真理への道、父なる神への道なのです。それは幸いへと続く道なのです。

 24節をご覧ください。

24 主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。 「主よ、私を懲らしめてください」これは不思議な祈りです。しかしこう続きます。「御怒りによらず、公正をもって」。神の懲らしめは、滅ぼすためではありません。私たちを正しい道へと引き戻すためなのです。もし神が私たちを放っておかれたなら、私たちは滅びに向かって進み続けてしまいますよね。しかし愛の神である主は違うのです。本来、私たちが受けるべき怒りを、御子イエス様に十字架で負わせてくださったのです。だから私たちは、滅びではなく、いのちの道へと導かれたのです。

 

 もう一度23節のみことばを味わいましょう。

23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。 

 「人の道は自分のものではない」と語るのです。それは一見、悪いことのように見えるかも知れません。自分で思うようにならなのですから。しかし、実はとても大きな慰めなのです。

なぜなら、「自分で全部を背負わなくていい人生」だからです。神様が背負ってくださるのです。会堂建設は、私の牧師人生においてもかなり大きな決断でした。規模も小さな教会。経済的にも小さい。到底できないように思える。決して小さな決断ではありませんでした。しかし、神様から示されたことは、主がお建てになることだということ。そして、建っても建たなくても関係ない、ただ私は神様を愛し、神様とともに歩む牧師であれば十分だということでした。自分で全部を背負わなくていい。主がおられる!もし自分で全部を導こうとすれば怖くて不安です。

しかし神様にすべてを委ねるなら平安があります。これは本当に幸いなことです。ですから私たちはいつでも、主とともに歩めばそれで大丈夫です。ですから、ただこう祈りましょう。「主よ、私の人生をあなたが導いてください」と。 自分で道を確かに出来ない私たちに、主は確かな道を備えてくださるのです!!安心してこの方について行きましょう!

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