東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ4章7~12節「愛され、愛する者になる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/07/27

第一ヨハネ4章7~12節「愛され、愛する者になる」

*** 7/26(日)主日礼拝 説教概略 ***

 愛はなぜ必要なのでしょうか。愛がなければ、人は生きていけないからです。
 1945年頃の研究ですが・・・小児科医ルネ・スピッツは、孤児院で育つ乳飲み子と、刑務所内で母親に育てられる乳飲み子を比較調査したそうです。孤児院の乳児は栄養も衛生管理もバッチリ行き届いていました。それにもかかわらず、死亡率が非常に高く、発達の遅れも深刻でした。一方、刑務所という劣悪な環境でも母親の愛を受けて育った乳児は健全に成長しました。他にも多くのこうした研究がなされています。


 そこでわかっていることは、物理的な豊かさだけでは人は育たないということです。「愛」という「見えない栄養」が人には必要なのです。すべての人に必要です。分かってもらうこと、心配されること、祈られること、声をかけてもらうこと。こうした愛が私たちを生かすのです。この「大切な愛」は、昨日からの子どもたちのキャンプテーマでもあったのですが、復習も兼ねつつ、皆さんでみことばから教えられましょう。 

 

1.愛を神から受けること 

 まず、愛はどこにあるのでしょうか。7節の中ほどに着目してください。愛は神から出ているのですとあります。「神は愛なり」と語られるほどに、神は愛に満ちています。そして、私たち人間は、この神様の愛を知る時に一番輝く存在として造られました。神の愛を理解し、神の愛に感動し、神の愛に倣って愛していくとイキイキする私たちなのです。

 しかし、人は罪を犯し、神様に背を向け、自分勝手な道を歩みました。この愛から離れてしまったのです。結果、この世は冷たく歪んだ世界、やさしい人ほど苦しむ世界になっています。確かに、人は完全な愛を経験しなくとも愛することはできます。

 ところが、その愛さえも「自己中心的な愛」であったり、「感情でコロコロ変わる愛」であったりします。自分が元気で余裕があれば優しく出来る。でも、自分が疲れている時には厳しくなる。その愛は一瞬で消える。長く続かないのです。それは、「まことの愛」ではないからです。それゆえに、満たされないのですよね。本当の意味で愛されていないし、本当の意味で愛せていないから満たされません

 では、どうしたら愛する者になれるのでしょうか。それは神から愛を受け取ることによってです。私たち自身が本物の愛を知ることです。愛のタンクを満たしていただくことが大切です。「愛は神から出ている」のですから・・・神様に求めようではありませんか。それをしないで、必死に自家発電のように愛を生み出そうとすると、すぐに燃料が切れて枯渇します

 少し先の10節を見ていただけるでしょうか。「私たちが神を愛したのではなく」の部分には、「私たちは神を愛して来なかった」という意味があります。私たちは神を愛して来なかった。神から離れ、好き勝手に歩んで来たのです。しかし、そのような勝手な私たちであった時に、まだ罪人のままであった時にまず神様が愛してくださったのです。だから、愛して来なかった私たちでさえも、愛する者へと変えられたのです。本当の愛で自分も隣人をも笑顔にしたいと思うのなら、まず神の愛と恵みに十分満たされることです。私たちの愛の源、力の源は神様なのです。

 

2.ひとり子をも与える神の愛  

 では、神様から来る愛とはどのような愛なのでしょうか。人間が自力で絞り出す愛や感情的な好きとはどのように違うのでしょうか。それは完全な愛です。無条件の愛、敵さえ愛する愛、犠牲をも厭わない愛です。聖書の中のギリシア語では「アガペー」ということばで表されています。9-10節を改めて味わいましょう。

9節 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって神の愛が私たちに示されたのです。 10節 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 申命記7章で神はイスラエルに、「あなたが多かったからではない」と言われます。大勢だから、大きな国だから、立派だから、良い成績だから愛されるのではない。昨日はルカ15章の「放蕩息子」の話から、神様の愛を教えられました。自分勝手に家出をし、父親の財産を使い果たした息子をも愛する父の愛がそこにありました。「ごめんなさい」を言う暇もなく、走り寄って抱きしめたのでした。お父さんはずっと愛していたのです。

 私たちもまだ罪人だった時、救い主を信じず、神をも恐れず、自分勝手に生きていた時に、ずっとずっと神様は私たちを愛して下さっていたのです。その時に、代わりのきかない大切な御子を与えて下さった。主イエス様のいのちをかけた愛。愛するわが子を犠牲にするほどの愛でした。自分のひとり子を与える愛、それは人には想像できない程の愛です。

 先日のほっとカフェでは、越谷教会の三橋夫人にお証しをいただきました。初めてのお孫さんが、生後わずか6日間でこの世を去ったお話でした。染色体異常を持って生まれ赤ちゃんでしたが、家族皆で代わる代わる抱っこしている中で、容体が急変し数時間後に息を引き取ったのです。それでも、この子と過ごした時間を本当に幸せな時間だったと、神様に感謝していることが印象的でした。お話を伺いながら、愛する者を失うことの痛みを改めて考えさせられました。うちの長男は0歳で川崎病、小学生の時には喘息発作で緊急入院、「家に帰れば死にます」と言われました。次女は難産だったため、呼吸が弱く保育器へ。ドクターが必死の形相でそれを説明するので、「もしかしたらダメかも」と思ったのです。次男は高校入学早々、肺気胸を繰り返し、動けなくなるほどに酸素が欠乏。一歩間違えば死ぬのではと恐れました。思い出すだけで辛くなります。しかし、どうでしょう。神様は私たちを救うために自らの意志で、愛するその子を犠牲にされました

 苦しむその姿は見ていられないほどだったはず。それなのに・・・。イエス様の弟子のペテロはその深い愛によって大きく変えられた人です。彼はイエス様の教えをあまり理解できず、時々とんちんかんな応答をしていました。また臆病で、感情的で、幾度も失敗した人です。極めつけは、自分のいのち惜しさに公然と、しかも三度もイエス様との関係を否定した人でした。それでも、彼はイエス様から祈られ、受け入れられ、愛されました。そして、ペテロのこうした罪や弱さのために十字架で苦しみながら死なれたのです。それなのに、復活後、主は彼を少しも責めませんでした。それどころか、彼を信頼し「お前に任す」と言われたのです。ペテロは主イエスの深い愛と信頼を感じたでしょう。それで彼は用いられたのです。

 

3.愛されている、だから愛していく 

 私たちは神様に愛されていると知る時、愛する者へと変えられていきます。

11節 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 

 私たちは愛を神様から受け取りました。愛を知った。その人は、愛する者にされていきます。この手紙を書いたヨハネは、これを受けた者たちにしか出来ないことを伝えています。愛し合う理由は、神がこれほどまでに愛してくださったからです。最初の7節で、こうありました。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。」と。「愛する者たち」との呼びかけは、「愛されている者たち」とも訳せます。愛されているあなたがたなのだから、愛し合いましょうと語られる。

 神の愛を知らない人に、愛し合いましょうと言ってもそれは難しいことです。食べたことのない食事の食レポが難しいように、愛を受け取ってない者に、愛を出すことは難しいのです。でも、神の愛を知ったなら、むしろ出し惜しみしないようにと語られている。私たちが愛を現わしあうとき、そこにイエス・キリストの姿が現わされていくのです。

12節 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 

 人の目には見えない、霊的な神の存在です。しかし、私たちが神の愛で愛する時、そこに神の絵が美しく浮かび上がるのです。キリストを信じた者たち、クリスチャンが、神の愛を受け取って、この愛で愛し合う。それで、人々は愛を知るようになるのです。そして、愛を知った人は変えられていきます。

 太平洋戦争の時代、日本はアメリカと戦争をしていましたね。その際にアメリカ軍に捕まり捕虜になった人がいました。酷い拷問を受けたのではないかと思ったら、なんと女性の看護師に本当に親身に献身的な看護を受けたそうです。しかも、その女性の両親は宣教師で、何も悪い事をしていなかったのに日本人兵士に殺されたのでした。でも、彼女は敵をも愛するこの愛を両親から受け、怪我をした日本人の兵士たちに愛を注ぎ、彼らに優しくし看病しました。こうして、キリストの愛というものを知った日本兵が、クリスチャンになっていきました。その愛の中にキリストを見たのです。愛を通して神を知ったのです。

 

私たちの教会の年間テーマ聖句は、「互いの重荷を負い合いなさい」です。そうやって愛を現わすことです。そして、この数か月の中で、その愛を私も受けて来ました。私が鼻や喉の調子が悪い時には、私に代わって司会等をしてくださる方がありました。病のゆえに奏楽が難しくなったので、祈祷会では兄姉たちが代わる代わる演奏し、助けて下さっています。私の細かい指示に、緊張やプレッシャーを感じながらも愛をもって応じて下さって本当に感謝です。私の代わりに事務的な事を負ってくださる方々もいます。それにより、私は体の負担を減らすことができました。みことばに集中させていただけました。重荷が軽くなったと感じます。その愛やもてなし、賜物による助けを味わいました。

そのような愛の助けがあるところに、人々は「神の愛」を発見するのではないでしょうか。本当の孤独は「一人で過ごすこと」ではありません。自分しか愛さない人生を送ることです。そんなさみしい人生は終わりにしませんか。あなたは愛されているのですから・・・あなたも愛する者になりませんか。

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