*** 10/11(日)主日礼拝 説教概略 ***
クリスチャンの強さはガチガチに固められた硬い強さではありません。むしろ、バネのように柔軟に力を逃す「しなやかな強さ」だと思います。何度でも再起できる強さです。尾崎豊というロック歌手は、こう歌います。「ぼくがぼくであるために、勝ち続けなければならない」と。自分の存在を認めさせ、「価値あり」と証明するために、彼は勝ち続けなければならないと歌ったのでしょう。失敗できない、敗北できないという感覚です。それはとても苦しい日々でしょう。
しかし、しなやかな強さは、しくじっても立ち上がる強さ。そして、立ち上がるたびに良くなっていく強さです。ある若い子は、「牧師って毎回説教でヒット(安打)を打たないといけないんでしょ?それはしんどい」と言いました。面白い表現です。
実際は空振り三振もあると思います(笑)。でも大丈夫です。その場合にも主が「振り逃げ」で出塁させて下さるからです。また、主は次の打席も用意して下さいます。
何が言いたいのでしょうか。大事なことは、「私たちに何ができたか(できるか)ではなく、私たちが誰とともにあるか」ということです。
今日の説教では「帯」が登場します。帯はそこら辺に置かれて、放置されているなら意味がないでしょう。いつもケアされて、有効に身に着けられて活躍するものです。同様に、私たちも神に結びつく帯となり、神様にケアされながらとともに生きていくことです。その時に、神様ご自身にすべての幸いがありますから、ともにある者も幸せになり、美しく輝くのです。教えられてまいりましょう。
1.神から離れて歩むことの不幸せ
神様はここでエレミヤを通して、ある種の体験学習によって真理を示そうとされました。その真理とは何でしょうか。「神様から離れれば、私たちは本来の輝きを失う」ということです。神様はエレミヤに命じました。1節です。
1節 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」
神様は預言者エレミヤに、まず帯を購入させ、彼の腰に締めさせました。最初に申し上げると、この帯がイスラエルの民、神の民を指し示しています。帯のように神様にぴったりとくっついて歩むようにと語られているのです!
では、この帯の素材は何でしょうか。「亜麻布」でした。それは祭司の帯に使われていました。ですから、神様は信じる民全体を「祭司の王国」にしようと願っておられたのでしょう。信じる者たちが神様の御側近くに歩み、その栄光を現わす存在となるように。
そして水の中に入れないようにと命じられています。実は「亜麻布」は「成長する繊維」と言われ、水洗いをすると徐々に柔らかさとしなやかさが生まれ、汚れも落ちやすい性質を持つそうです。不思議な素材ですね。逆に、水に浸けるのを禁止するならば、繊維もほぐれず硬いまま、汚れも落ちにくいでしょう。おそらくそれは、この神の民の強情な頑なさ、罪深さを示すのではないでしょうか。
そして、エレミヤは帯を身に着けるよう命じられ、身をもって体験したのでしょう。しなやかさのない固いままの帯。洗わないので汚れたままの帯です。強情で汚れた民を身に着ける神様のお気持ちがいくらか分かったかも知れません。それでも神様は見捨てることなく、ご自分の腰にこの帯を大事に着け続けて下さったのです。
ところが、この民は「あっちの方がいいや」と、この愛と優しさに満ちた神を離れました。異国の偽りの教え、偶像へと向かったのです。それを体験させるため、神様は4節で命じました。
4節 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」
この状態が神から遠くに離れてしまった状態です。「ユーフラテス川」とは、おそらくユーフラテス川方面の地域のことではないかと思います(別の解釈もあります)。
実はこれらの地域は、アッシリアやバビロンの地でした。実際イスラエルは、彼らに滅ぼされボロボロにされました。大事な点は、密着させようと願われた神様から遠くに離れ、放置されてしまうと「どうなるのか」という点です。結果が6-7節にありますね。
6節 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。
7節 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。
結果は「ぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた」のです。9節によれば、その偉大な誇りがボロボロにされるということでした。
2.主にぴったりと結びついて歩む
では、どうしたら良いのでしょうか。人の手でしっかりケアされて、美しく用いられる帯として歩むことです。11節にその答えがあります。
11節 帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた──主のことば──。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。
ここから神様の本当の願いが分かりますよね。イスラエルの人々が、いつでも腰の帯のように、神様から離れずぴったりと結びついて歩むことでした。それが人の幸せとなるので、神様はそれを願っていてくださったのです。しかし、11節最後にあるように、神様に聞き従わなかったことが問題でした。その前の10節にもこうあります。「わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで」と。ですから、これらの反対にしましょう。
神様を拒まないで、すがり、しがみついたらいいのです。実は、11節の腰に「着けた」と訳されていることばには、「すがる」、「しがみつく」という意味もあります。実際、別の個所では「主にすがる」と訳されています(申命30:20)。つまり、いつでも柔らかな心で主の声に聴き従い、ここから離れないことです。
いつでも神様にすがり、その御手の中で水に浸して洗われケアされていけばいいのです。主のいのちの泉にしっかりと浸たり、ケアされませんか。すると、徐々に繊維がほぐれ柔らかくなり、汚れも流れ落ちていく。柔軟でありながら、強度も増していくそうです。まさに神の御手の中で「成長する繊維」となり、神様にぴったりと馴染むものとされていくのです。
3.結びついているなら、栄光に満ちた神の民となる
するとどうなるでしょうか。その人は神様から「わたしの民」と呼ばれ、神の名声そのもの、神による栄誉を受け、神によって栄える(繁栄する)者となるのです。11節の後半では、主が一緒に歩む帯としてくださった目的が明らかにされています。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。 このように、神とともにあることは、私たちの自由を奪うことではありません。神のものとされ、本来の輝きを与えられるのです。私たちは本当の居場所を持ち、神の栄光を反映させる帯として豊かに輝きを放つことができるのです。ここにあるように「神の民となり、名声となり、栄誉となり、栄となる」からです。
しかし、普段、私たちは何に密着して歩んでいるでしょうか。何を支えとし、何を誇りとして大事にしているのでしょう。人からの「ほめ言葉」でしょうか。様々な資格、ライセンスでしょうか。何かの才能でしょうか。誰かに必要とされることでしょうか。それらも大切なものではあるでしょう。しかし、それらに密着するとき、私たちはそれらによって消えない喜び、真の幸せを得るでしょうか。あなたの造り主は、ご自分に結びついて生きるよう招いておられるのです。ご自分の民として、親しい交わりの中で歩み、神の名誉と誉れと栄えを得よと言うのです。しかし、民は神様の声に聞き従わず、神様から離れていきました。ですから神は、そこから回復したいと願い語りかけておられるのです。何より、私たちをご自分のもとに招くために、イエス・キリストを遣わしてくださいました。キリストの十字架こそ、離れた私たちを神様に親しく結び合わせるための架け橋なのです。この十字架を信じる者は、もはや自力で価値を証明し続ける必要がありません。
テコンドーのメダリストの岡本依子さんは、現在牧師をしています。かつて彼女がテコンドーの選手だった時、イエス様を信じていなかった時のことです。当時は、自分の力で目標を達成しなければならないという重圧の中で、とても苦しんでいたと語っています。信仰を持つ前は、自分で考え、自分で答えを出し、ひたすら頑張り続けなければならない。それは「みじめな生き方」だったと言います。自分で決めた目標に向かって、自分の力で成し遂げようとするから、本当に苦しかったと。「早く死にたい。楽になりたい」と考えることもあったそうです。
しかし、イエス様を信じてから、天と地ほどの差を経験したと言われます。神様のもとにあるならば、「あなたは今のままで価値がある」という前提から始まります。それを受け入れたことで、「自分で何とかしなくては」から、「今の自分にすべてを与えてくださった神様に感謝し、喜びを表現したい」と思うように変えられたそうです。だから今は、すべての答えを持ち、私を愛し祝福したいと願う神様とともにあること自体が喜びだと言います。
神様は帯単体で頑張れとは決して言いません。むしろ、わたしにぴったり着いていなさいと言われます。汚れても主が洗い流して下さいます。硬くなったら水でほぐしてくださいます。クリスチャンの強さは、頑丈な強さではなく、何度でも立ち上がれる「しなやかな強さ」なのですよね。そして、神様は、ご自分の名誉も栄誉も、栄えも、ご自身と一緒に私たちに味合わせてくださるのです。帯である以上、一緒にそこにあるのですから!!
あなたは、これから何に結びついて生きていきたいでしょうか。
神様はあなたを深く愛し、いつでもともに歩んで欲しいと願っておられます。そして、ご自身の持っておられる栄光を人に与え、人が輝いて歩んで行けるようにされるのです。