8節 私はいつも 主を前にしています。 主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。
9節 それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
主を前にし、主が自分の右でその右手を握っていてくださる。それゆえ、ダビデの心もたましいも喜び、その肉体においても安らかに過ごせるのです。霊肉ともに満たされるのですから、主とともにあることは何にもまさることです。
そして、10節は、その喜びや安らかさの根拠について、ダビデが告白します。
10節 あなたは私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
「死」は人の希望を破壊しますが、「復活のいのち」は、人に希望と平安を与えます。実に、これらの箇所は、新約でペテロやパウロによって引用されています。どのような場面での引用だと思いますか。実は、キリストの復活に関するメッセージの際に、ここが引用されているのです!例えばペテロは、この詩篇において、ダビデがキリストの復活について語っていると説き明かします。預言的啓示がここに含まれていると理解しているのです。確かにここには、死への勝利が喜びや平安の土台にあることが文脈的に示されていますよね。父なる神は、御子イエスのたましいをよみに捨てておくはずがなく、御子の復活は、信じる者の復活の保証でもあるのです。
そして、最後の11節をご覧ください。
11節 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。
この節は8節との対応関係で重要かと思われます。8節では、「私はいつも 主を前にしています」と、彼が現在既にしている状態を語りました。それに対して、11節ではどうでしょうか。まず8節では主語が「私」でしたが、11節では「あなた」に変化しています。ダビデがいつも主を前にしていた、すると主であるあなたは、「いのちの道を知らせてくださいます」とあります。この11節は未完了形です。動作が完全に終わっていないことを示します。ですから、意味としては、いのちの道を知らせてくださっているし、これからも道を知らせてくださる・・・しかも「とこしえに」ということばがありますから、「永遠に知らせて導いてくださる」というニュアンスでしょう。将来をも信じて、その確信の中にあるのです。
その「いのちの道」とは何でしょうか。10節にあったように、主は信じる者を滅ぼすことがなく、死が彼を支配しないようにされるのです。キリストの復活の預言とされるように、十字架には復活の勝利が約束されています。それこそ「いのちの道」の土台です。死で終わらない。死への勝利がある。そして、だからこそ、心から喜べる。だからこそ、心から楽しい日々を送れるものではないでしょうか。いつも死を恐れているとき、未来に不安があるとき、私たちは平安を持てないでしょう。喜んでいても、楽しんでいても、「終わりが来る、長くは続かない」と思えると、今ある喜びさえ味わえなくなりますよね。
でも、私たちがキリストともに歩むこの「いのちの道」には、終わりがないのです。
神のもとには喜び、楽しみ、安らぎがあり、私たちはこの方に前に、この方に右手を握っていただいて歩むと教えられました。少し整理しましょう。
1節では、ダビデが危険な苦難の中にあるのだと分かりました。それでも、彼は主に目を注ぎ、2節で「あなたこそ私の主」と告白しました。幸いはすべてあなたにあると言いました。そして、主である神を喜び、いつも主を前にするということを実際に大事にしました。その時、彼は主のもとにある喜び、楽しさ、肉体の安らぎに目を注ぐことができ、またそれが永遠に失われないものであると知るのです。
私たちもここに立ちましょう。私たちもダビデのように、苦しみがあります。様々な戦いがあります。将来への不安や恐れに囚われることもあるでしょう。しかし、すべての事の前に主を見つめるのです。その事の前ではなく、その前におられる主の前に。そして、方に右の手を堅く握っていただき、主にある喜びを味わい、主と楽しく過ごし、失われないこの「いのちの道」を歩んで参りましょう。
