東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇16篇1-5節「あなたこそ 私の主」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/10/08

詩篇16篇1-5節「あなたこそ 私の主」

*** 10/7(水)祈祷会 説教概略 ***

 どのような組織においても、良いリーダー、良い指導者がいることは本当に重要なことです。しかし、それを選べない事の方が多いかも知れませんね。けれど、クリスチャンはどこにいても、真のリーダーを選ぶことができる特権があります。それは、どこに置かれていたも神様を「私の主」と信じてついて行けるという特権です。



 この詩篇は、ダビデによるもので、そのテーマは、「主とともに歩む楽しさ、喜び」です。信仰生活も教会生活も、この方にあって楽しく、喜びのあるものとされるのです。本日は1-5節までを味わいましょう。

1節 神よ 私をお守りください。私はあなたに身を避けています。 

 ここから、ダビデが身の危険を感じていた日々の作品であると分かります。命を狙われる危険な日々だったのでしょう。そのような時、私たちはどちらかと言うと自分の家に身を避けたり、身近な人に身を避けたりを優先してしまいがちです。もちろんそれらも、主が与えた下さった良きものです。

 しかし、すべてをご存知で、すべての所有者である神様にこそ身を避けると考えていたのがダビデの素晴らしいところです。そして、ダビデは危険を避けるだけで終わらず、主のもとには、大いなる喜びも楽しみもあって、心にゆとりある幸いな日々を送れるとまで告白するのです。驚きですよね。危険から守られて、「ああ、よかった」で終わらない。危機的な状況でさえ、喜びに満ちた幸いをも味合わせてくださるのです!

 ダビデは2節の冒頭で「私は主に申し上げます」と始めます。ここにある「主」が太字になっており、ダビデが神様を「ヤハウェ」とその名前で呼びかけたことが分かります。この名前こそが、世界の根源そのもの、存在そのものであることを示す名前です。ダビデはそれを分かって、主に求め、主に告白をしているのです。2節の続きで彼は言います。「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」 

 彼は、あなたこそ「私の主」、あなただけが「私の主」と言うのです。それは、「私の人生(いのち)の主人は、神様、あなたです」との告白です。

 私たちはどうでしょうか。

 「私の人生」、「私のいのち」と思い込んでいないでしょうか。すべて、主が与え、あるいは任せ、あるいは預けてくださっているものではないでしょうか。

 また、イエス様が罪と滅びからの「救い主」だとは信じて歩んでいるかも知れません。しかし、もう一つ大事な「私の主」と信じて生きることを見失っていないでしょうか。救って下さって終わりではない。私たちの生涯を最後まで導いて下さる私たちの主(あるじ)、私たちの王なのです。

 そしてダビデは、自分の主に向かってこう告白しましたね。「私の幸いは あなたのほかにはありません」と。それは、あなたを離れては、あなたに反して、幸せにはなれないという告白です。さらに、ここでは「あなたの上には」とも訳せます。
 神様の上に自分を置くような者には、幸いはないということでしょう。自分を神とする傲慢さではないでしょうか。私たちはむしろ、このお方を「私の主」として、その「下に」へりくだってお従いしていく時に幸せなのです。神様に自分の願いを訴えるばかりでは、神様を便利使いしているようにも思えます。それではどちらが上なのか分かりませんよね。

 

 3節と4節では、神を「私の主」と信じる者と、そうでない者とが比較されています。3節では神を「私の主」と信じる者たちの喜びに満ちた交わりについて語られます。

3節 地にある聖徒たちには威厳があり 私の喜びはすべて 彼らの中にあります。

 神を信じる聖徒たちには主からの威厳があり、そのような人々の交わりの中に、ダビデは喜びがあると語ります。「すべて」ということばがあるように、ダビデが得る真の喜びはいつでも、この聖徒の交わりの中にあったのです。

 私たちも使徒信条で「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じると告白しています。そこに主がいのちの祝福を置いておられ、交わりの中で霊的ないのちが輝いていくことを信じるのです。確かにそうでしょう。神のもとにへりくだっている謙虚で柔和なクリスチャンの集まり。そこでは人の自慢や高慢さは影を潜め、主である神様が高くされているはずです。そこに私たちがいる時、安心しますし、尊敬できるし、温かく、本当の喜びがあるでしょう。

 少し整理するとこうです。ダビデは、自分の幸せは神のもとにあると告白し、自分の喜びのすべては、この主を中心とした聖徒の交わりの中にあると言うのです。


反対に4節では、神を信じない者、偶像礼拝に走る者の姿がありますね。

4節 ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。 

 神から離れ、偽りものに頼るならば、幸せや喜びはやがて失われ、痛みが増し加わっていきます。それは見栄えは綺麗でも中身は腐った果実のようです。美味しそうに見えて、外側は美味しく食べられる。でも、奥に行くほどに腐っており、食べ終わる頃には腹痛に悩まされ、後悔するのです。だから、ダビデはそもそも彼らの注ぐ酒は、飲むどころか、注ぐことしらしないとはっきり断ります。また、その偶像の名を口にすることさえしないのです。

 彼には幸いな杯が与えられているのですから。

5節 主は私への割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。

 主である神様こそが、人が幸せになれる割り当て分、杯なのです。ただし、主がくださるものが幸せにするのではなく、「主ご自身が良き割り当て」であり、「主ご自身に幸いがある」ということを理解しないと、主から何かをもらって離れて行き、不幸になってしまいますね。主ご自身が幸せの杯なので、この方から離れないことが大事なのです。

 

私も主のご用のために労しながら、時に楽しみや喜びが見えなくなることがあります。本来楽しいはずの主の働きなのですが、「良い結果を出さなければ」と背負い込み、「心に響く説教をしなければ」と自分を追い込みます。そうして、いつの間にか疲れています。

それは、心のどこかで私の主人は私だと思って歩んでいる時なのかも知れません。自分が主人なら、自分で何とかしなければならないからです。自分が責任者だから自分が責めを負う。だから、自分の生涯の主人が自分なら、私たち自身の責任は重いでしょう。

サウル王の失敗はこの点にありました。「王」という肩書に引っ張られました。自分が立派で、一番でなければならないと思ったでしょう。だから、自分より人気の出たダビデに嫉妬し、恐れたのです。民が自分の命令に聞かずに去っていくことを極端に恐れ、みことばを守らず、祭司の領域にまで踏み込んでしまった。そこには幸いではなく、いつも恐れと不安が満ちてしまっていたのです。自分を神の上に置いたからです。 

ですから私たちは、自分の人生の「主(あるじ)」は、イエス様であるとはっきり認める必要があるのです。この告白が、私たちをどれだけ重荷から解放してくれることでしょうか。イエス様は、「すべて疲れている者、重荷を負っている者は私のところに来なさい」と言われる。なぜなら、イエス様が代わりに主人となってくださるからです。そして、私たちが自分で決めた背負えない重荷を負うのではなく、主人あるイエス様が「これを背負ってくれるかい?」と、ちょうど良い重荷を負わせてくださるのです。

ですから、私たちはいつでも、ここに帰って来たらいいのです。「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません。」と。 私たちが自力で幸せを掴み取らなくていい。責任に押しつぶされなくていい。主のもとに幸いがあるのです。

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