ダビデは2節の冒頭で「私は主に申し上げます」と始めます。ここにある「主」が太字になっており、ダビデが神様を「ヤハウェ」とその名前で呼びかけたことが分かります。この名前こそが、世界の根源そのもの、存在そのものであることを示す名前です。ダビデはそれを分かって、主に求め、主に告白をしているのです。2節の続きで彼は言います。「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」
3節と4節では、神を「私の主」と信じる者と、そうでない者とが比較されています。3節では神を「私の主」と信じる者たちの喜びに満ちた交わりについて語られます。
3節 地にある聖徒たちには威厳があり 私の喜びはすべて 彼らの中にあります。
神を信じる聖徒たちには主からの威厳があり、そのような人々の交わりの中に、ダビデは喜びがあると語ります。「すべて」ということばがあるように、ダビデが得る真の喜びはいつでも、この聖徒の交わりの中にあったのです。
私たちも使徒信条で「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じると告白しています。そこに主がいのちの祝福を置いておられ、交わりの中で霊的ないのちが輝いていくことを信じるのです。確かにそうでしょう。神のもとにへりくだっている謙虚で柔和なクリスチャンの集まり。そこでは人の自慢や高慢さは影を潜め、主である神様が高くされているはずです。そこに私たちがいる時、安心しますし、尊敬できるし、温かく、本当の喜びがあるでしょう。
少し整理するとこうです。ダビデは、自分の幸せは神のもとにあると告白し、自分の喜びのすべては、この主を中心とした聖徒の交わりの中にあると言うのです。
反対に4節では、神を信じない者、偶像礼拝に走る者の姿がありますね。
5節 主は私への割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。
主である神様こそが、人が幸せになれる割り当て分、杯なのです。ただし、主がくださるものが幸せにするのではなく、「主ご自身が良き割り当て」であり、「主ご自身に幸いがある」ということを理解しないと、主から何かをもらって離れて行き、不幸になってしまいますね。主ご自身が幸せの杯なので、この方から離れないことが大事なのです。
私も主のご用のために労しながら、時に楽しみや喜びが見えなくなることがあります。本来楽しいはずの主の働きなのですが、「良い結果を出さなければ」と背負い込み、「心に響く説教をしなければ」と自分を追い込みます。そうして、いつの間にか疲れています。
それは、心のどこかで私の主人は私だと思って歩んでいる時なのかも知れません。自分が主人なら、自分で何とかしなければならないからです。自分が責任者だから自分が責めを負う。だから、自分の生涯の主人が自分なら、私たち自身の責任は重いでしょう。
サウル王の失敗はこの点にありました。「王」という肩書に引っ張られました。自分が立派で、一番でなければならないと思ったでしょう。だから、自分より人気の出たダビデに嫉妬し、恐れたのです。民が自分の命令に聞かずに去っていくことを極端に恐れ、みことばを守らず、祭司の領域にまで踏み込んでしまった。そこには幸いではなく、いつも恐れと不安が満ちてしまっていたのです。自分を神の上に置いたからです。
ですから私たちは、自分の人生の「主(あるじ)」は、イエス様であるとはっきり認める必要があるのです。この告白が、私たちをどれだけ重荷から解放してくれることでしょうか。イエス様は、「すべて疲れている者、重荷を負っている者は私のところに来なさい」と言われる。なぜなら、イエス様が代わりに主人となってくださるからです。そして、私たちが自分で決めた背負えない重荷を負うのではなく、主人あるイエス様が「これを背負ってくれるかい?」と、ちょうど良い重荷を負わせてくださるのです。
