東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/10/04

ローマ10章1-4節「律法の目指すものはキリスト」

*** 10/2(水)祈祷会 説教概略 ***

 律法主義的なユダヤ人からしたら、このタイトルは決して許せないタイトルでしょう。律法とキリストとは、相容れないものと彼らは考えていたわけですから。しかしながら、パウロは、キリストを信じて、聖霊の啓示によって、この説き明かしができる者とされました。実に、律法が目指していたものは、すべてキリストのうちにありました。キリストは律法が求めていたすべてを満たすことができました。キリストによって、律法の役割は全うされているのです。

星野富弘氏「心やすらぐアート展」終了のお知らせ

星野富弘氏「心やすらぐアート展」

皆様のお支えのうちに、無事終了いたしました。
大変多くの方がおいでくださいました。
おいでくださったすべての皆様に、心より感謝申し上げます。



富弘美術館館長の聖生清重(せいりゅう きよしげ)さんや、東村山市の渡部市長もおいでくださいました。心より感謝申し上げます。




2024/09/30

毎日の聖書【10月分】


1日 レビ記21章
 祭司たちへの教えがなされている。1-4節では、特に死人によって自分の身を汚してはならないとある。罪の影響によって「死」が人間の世界に入った。そうした背景を覚えてのことだろう。また、その死体には、もうその人のたましいはなく、主のみもとにある。必要以上に亡骸に固執することも相応しくない。特に祭司は模範を示す立場だからこそ、相応しい態度が求められた。5節では、「頭を剃ってはならない。ひげの両隅を切り落としてもいけない。からだにいかなる傷もつけてはならない」という不思議な教えがあるが、実はこれは、異教の人々が死者を悼む時になした習慣であった。ゆえに、20章で警告されていたように、異教徒の悪習慣に倣わないにせよという教えである。6節で、彼らは偽りの神に対してではなく、「自分の神に対して聖でなければならない」とある。私たちも同様だ。どこを見て歩んでいるのだろうか。世の評価であろうか。協調性という名のもと、間違った習慣に流されないようにしたい。世界の王、世界の造り主に対して聖でありたい

伝道者の書10章1-15節「愚かさからの解放」

*** 9/29(日)主日礼拝 説教概略 ***

 「愚かさからの解放」というタイトルです。ただ、聖書が語る「愚かさ」が何であるかがわからないと、愚かさの中に居続けてしまうかも知れませんね。聖書の語る「愚かさ」とは、頭の働きが鈍いとか、勉強ができないといった事ではありません。むしろ、自分は賢い、悟っていると思い込み、神の知恵を求めない人のことです。これが聖書やこの書で言うところの愚かさです。

2024/09/25

ローマ9章30-33節「信仰によって」

 *** 9/25(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちに与えられる「救い」とは、恵みによるものです。
 恵みによると言う場合、それを受け取る手段は、良い行いではありません。ただ信じるのみ、つまり信仰によって、神の義を与えられるのです。そして、この恵みを受け、義とされた者だからこそ、応答として御霊の助けのうちに神のみこころを実行していけるのです。しかし、律法主義に陥っていたユダヤ人たちはこれがなかなか理解できずにいました。そのために、キリストの十字架の意味がわからず、キリストご自身が「つまずきの石」となってしまうことさえありました。私たちは、行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって生きます。彼を「信頼(信仰)する」者は、失望させられることがないからです。信頼に値するキリスト。この方への信仰によって歩んで参りましょう。

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