東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
プロテスタント、福音派のキリスト教会です。久米川駅南口から徒歩6分(3駅利用可)。
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主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)
最新情報
2020/01/04
先立ってくださる主
申命記31章1-8節「先立ってくださる主」
1. 未来への恐れと不安の中で
モーセは既に
120
才になりました。もう何もできないほど弱っていました。
バトンタッチの時です。
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2019/12/29
感謝!意味のない苦しみはない
哀歌
3
章
31-33
節「感謝!意味のない苦しみはない」
「本物の感謝は成功の連続の中では生まれて来ない」
年を経るに連れて、その思いが強くなっています。
自分自身も多くの失敗や挫折を味わい、また多くの人と出会い話を伺えば伺うほど、そう感じるのです。
痛みや苦しみを通った方の「感謝」のことばには、やはり
重みや深みを感じる
のです。皆さんはどうでしょうか?
何もかもがうまくいっている時も感謝でしょう。けれども、目の前に起きている良いことを喜ぶのは当然なのですから、その感謝は聖書信仰なしでも可能な感謝でしょう。
しかし、キリスト者の特権は、「人の目には感謝することが難しい状況」を、神様によって感謝させていただけることです。一年を振り返る時に、良いことばかりのはずがありません。それでもなお、私たちが神様に感謝する理由は、あらゆる出来事の中に主なる神様の御手があるからです。
神を知らない人は、「嫌なことは忘れよう」と考えます。しかし、神を知る者は、嫌なこともまた神の御手の中で起こっていることを受け止めるのです。神を信じる者にとって、様々な試練や困難は、偶然起こっていることでもなく、神様が悪意をもって意地悪しているわけでもないと知っています。むしろ、その困難を通して、私たちが神を知って幸いな者になれるようにと神様が備えたもの。
イスラエルにヒゼキヤという王様がいました。彼は死の病にかかり、もう死ぬと言われました。けれども、彼の祈りを聞かれた神様が奇跡によって
「
15
年」いのちを延長してくださった
のです。そしてこのヒゼキヤ王が病から回復したときに、彼は神をほめたたえて言いました。その一部。
イザヤ書
38:17
ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした
。
味わった苦い死の恐怖の苦しみは、
自分が神を求めて平安に至るためのものだった
と言うのです。生きていることが当たり前だと感じる日々に、「生かされていることへの感謝」は生まれません。むしろ生きていることが辛いとさえ思えるかも知れません。
しかし、ヒゼキヤ王のように、死が目前に迫る経験を通る時に、今生かされている恵みに気づく
のではないでしょうか。
本日は、皆さんに「感謝の達人」になることを提案したいと思います。
達人への道は・・・
初級:これは当然に感謝すべきことを感謝すること。何かをいただいたり、助けてもらった時、親切にしていただいたら感謝をする。この当然のことさえもしないようなら礼儀知らずですね。皆さんはそんなことはないでしょう。
中級:これは自分の手柄にしそうな時に、神様や人に感謝できるようになること。健康が支えられている時に、自分の日々の鍛練のゆえだけでなく、神様の守りや家族の支えなどがあること。テストで良い点を取ったとしても、それは健康が守られ集中できるよう支えられ、苦手な問題ばかりとならず神様が守ってくださったと感謝する。
上級:これは健康を害しても、テストの結果が芳しくなくても、そこに神様の恵みを見出し、試練や困難などにおいても主に感謝すること。人の目に感謝が困難な時にも、神様のゆえに信仰によって感謝すること。
上級までいけば、達人ですね!
試練や困難などの苦しみさえも、神様にあって感謝する恵みを教えられ、感謝をもって一年を締めくくりましょう。
3:31
主は、いつまでも見放してはおられない。
しばしば、神様が自分を見放してしまったのでは?沈黙されているのでは?と苦しみのあまり思い込むことがあるのではないでしょうか。確かに神様は、時に私たちにあえて試練をお与えになります。そして、
私たちが試練によって大切な事を学べないのは非常に残念
ですので、あえてしばらくの期間私たちに手を差し伸べないのです。
ただ、それは厳密には見放しているのではありません。
神様はその間も決して私たちを見捨ててはおられません。
イザヤ書にこうあります。
49:15
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
母親が乳飲み子を忘れるだろうか?自分のお腹の子を大切にしないだろうか?そんなわけはない。いや、彼女たちが忘れることがあってさえも
神様は決してあなたを忘れない
と言われるのです。神様は私たちを決して忘れることがありません。一瞬たりともありません。私たちが寝るのも、起きるのも、その間もずっと見守っておられる。だから、私たちは睡眠中無意識でも心臓が止まらず守られて朝目覚めることができるのです。夜中、心臓が止まるのでは?肺が機能しなくなるのでは?と心配せずとも休めるのは、神様が見張っていてくださるからです。そんな神様ですから、意味もなく私たちを苦しみに合わせることは決してありません!
32
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
33
主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。
なんという嬉しい真実でしょうか。悲しみには必ず神の恵み、あわれみが共にあるのです。意味なく苦しみだけを与えることは決してない。これが愛の神様のなさることです。
ところが、私たちの肉の心が望むものは、なんの苦労もなく平和で穏やかな日々です。失敗もせず、挫折もせず、病にもならず、他人が自分の思い通りに動いてくれる。自分が欲しいことば、自分が言われて気持ちいいことばを言わせたい。世界を自分の望むままに!
しかし、それは「自分を神に仕立て上げる」事。自分を神にする=これこそ偶像礼拝の究極形です。高慢の罪の極致。
この罪は私たちを滅ぼします。ですから、時に神様は私たちを砕かれるのです。苦しみを通して私が何者であるかをゼロから教えてくださるのです。
私自身も様々な困難を通らされた時、本当に苦しく過酷でした。けれども、それがなければ今の私はありません。この会堂も私たちの目標通りにはなりませんでした。
2009
年にそこから
5
年以内を目標にとしましたが、随分時間がかかってしまいました。けれど、目標通りになっていたらと想像すると恐ろしいです。建物は立派になっても、中身は成長しないままだったことでしょう。
辛い過去、苦しい過去もまた、今の私になるために必要かつ大切な過去なのです。なければ楽だったかも知れません。でも、それがあるからこそ、神様の懲らしめ、慰め、あわれみ、助け、みわざを経験できたのです
。
病にならなければ多くの人に祈られる経験もできません。落ち込まなければ、兄姉や神様の励ましがどれほど嬉しくありがたいものかを知ることもできません。
今のあなたは良い経験だけで成り立っているのではない。苦しいことも、悲しいことも含めても、それを経たからこそ今の自分がいるのです。
私たちにとっては喜ばしくない過去も大いにある。後悔しかないという事や、深い傷を負わされた出来事。思い出すたびに怒りがわいてしまうことや、思い出すことも辛い過去もある。
ただ、知るべきことは、それらの過去もまた意味があるということです。
そうした過去の出来事を変えることはできません
。けれど、過去をどう受け止めるかは変えられるのです。
否定的な感情で見て来た過去を、神様の恵みの視点から買い戻すことができるのです
。
33
主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。
これが真実です。苦しみ悩んだことには、必ず神様からのメッセージがあります。
私は
3
年近く
LINE
というスマホアプリで聖書メッセージを毎日配信してきました。今は
760
名ほどです。しかし、
LINE
のサービス改変によって、同じことをしようとすると
3
倍の値段がかかるようになると通知が来ておりました。
せっかく続けてきたのに・・・祈って祈って、それでも答えが見つからず・・・
もう続けられないと思いました。
そこで最終的に決断し、事情説明と共にこの働きを終えることを皆さんに通知したのです。
とても悩み、とても残念気持ちでおりました。
苦しい決断でした。
しかし、その後、何名もの方から連絡がありました。
読ませてもらっていてぜひ続けてほしいと。
中にはお会いしたことがないような方からも!そして、継続できる献金をいただき、またさらに協力してくださる方が起こされつつあります。
神様が意味もなく私を苦しみ悩まされることはない
。まさにそうだと教えられました。
私は神様に噛み付いていました。「なぜ、こんな妨げを許されるのですか?神様から示され、多くの人の救いや励ましのためにしているのに!みこころにかなう働きじゃないのですか?」と。
でも、何の問題もなく続けられていたら・・・この方々の思いを知ることができませんでした。この励ましを受けることも、神様のみわざを味わう機会もなかったでしょう。
この一年、様々な困難、苦しみも通られたことでしょう。今もなおその最中かも知れません。しかし、神様の手が届いていないものはありません。意味なき苦しいなど一つもありません。それを知る時に、なんとありがたいことでしょうか。私たちを愛してやまない神様が、その苦しみを私たちを幸せに導くために備えておられるのです。感謝!
2019/12/25
今日があなたの救いの日
ルカ19:1-10「今日があなたの救いの日」
クリスマスはサンタの日ではなく、私たちの救い主、イエス・キリストがお生まれになった日です。サンタがくれるプレゼントも嬉しいことは確かですが、それはやがて消えて無くなる物です。
しかし、決して無くならないプレゼントを今日、皆さんに差し上げたい。それは
イエス・キリストがくださる
「永遠の愛」
というプレゼントです!
キリストは、
迷子の羊をどこまでも捜し求め、暗闇、恐れ、不安、絶望、孤独から救うために来られました
。
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2019/12/22
捜して救う神
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
(ルカ
19:9-10
)
今、もしあなたが、肩書も財産も体力も見栄えのする容姿も失ったとしたら・・・それでもあなたを見捨てないで、あなたとともに歩みたいと言ってくれる人がいらっしゃるでしょうか。
私たちは見捨てられ不安をいつも抱えながら、人々から自分の価値を認められたいという承認欲求を抱きながら「いいね」の数を気にして歩んでいる者たちではないでしょうか。
さらに、私たちの心には人には見せられない暗闇が誰にでもあります。
私たちの闇までも知った上で、なお私たちを愛し受け入れてくれる存在があるでしょうか。
イエス・キリストこそ、まさにあなたのすべてを知り、あなたの付属品なしに「いいね」をくださるお方です。
神の愛から離れ孤独な自己愛に生きている者たちを、神は「失われた者」としてあわれみ、捜し出し救ってくださる愛のお方です。
そのために御子キリストが十字架にいのちをささげられました。
この神の永遠に変わらない無条件の愛こそが、真のクリスマス・プレゼントなのです。
むなしく消える物でなく、永遠の贈り物をぜひ受け取ってください。
2019/12/15
心を分かち合える友を得る
それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
(ルカ
1:39-40
)
未婚で男性を知らない処女が、神の聖霊によって救い主を妊娠した。
マリアの身に起こったこの出来事はあまりにも驚くべきことで、他の人々には理解されがたいものでした。
しかし、神はにわかには信じがたい奇跡を経験し、それを信じるに至っている親類のエリサベツを良き理解者として備えていました。
ですから、マリアはそれを知りエリサベツに急いで会いに行ったのです。
マリアは決して孤独ではありませんでした。
エリサベツは一切疑うことなく、マリアの身に起こったことを理解し受け入れ、むしろ幸いなことだとマリアを励ましてくれたのです。
誰にも理解してもらえない。そんな孤独が私たちを絶望させることがあります。
しかし、信仰生活は孤独な戦いではないのです。
ともに喜びともに悲しむ交わりによって歩むもの。分かち合い祈り合って歩むものなのです。
キリスト者の強さは個人の信仰の強さではありません。
私たちの弱さを知った上で導かれる主と、重荷を一緒に担う信仰の友たちの存在によって強くしていただけるのです。
神はそのような友をあなたに備えておられます。
あなた自身もまた、他の人にとって心を分かち合える友となっているか?問われるのではないでしょうか。どうか、私たちひとりひとりが、神が望まれる良き友となれるよう神の愛を学び、みことばをもって人と関わる者とならせていただきましょう。
2019/12/10
あなたのためのクリスマス
「あなたのためのクリスマス」
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2019/12/08
なぜ、マリアは受け入れることができたのか?
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
(ルカ
1:38
)
まだ
10
代の若者、そして処女であったマリアにとって、それはあまりにも唐突な話でした。目の前に天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産む。名をイエスとつけよ」と言われます。
男性を知らないマリアにとって、ありえない話に思えたはずです。
しかも、その子はいと高き者、この地の支配者、その支配が終わることはないとまで言われるのですから、信じがたい話です。
けれども、彼女は自分の心の「ありえない」という声にではなく、天使が告げた神のことばに耳を傾けました。
「親類のエリサベツを見なさい」とのことばに、神の優しさを感じます。
エリサベツは不妊症かつ高齢でした。
二重の意味で妊娠が不可能と思えました。
しかし、事実妊娠
6
か月目を迎えていたのです。
神がすでに奇跡を身近でなさり「神には不可能なことはない」という宣言が確かな根拠の中で語られていると気づくのです。
信仰生活とは、一人ぼっちで自分の信仰で何でも乗り越えていくものではありません。
マリアがエリサベツ夫妻に起こった奇跡によって励まされたように、私たちも自分が信じきれない時、弱さを覚える時に、周りで信仰をもって歩んでいる兄姉の姿にどれほど励まされることでしょうか。
人の常識の檻から出て、神のみわざの確かさに立つ時、「おことばどおり、この身になりますように」と信じて歩む者とされ、大いなる恵みを受けるのです。
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