1日(月)Ⅰコリント1章1-9節
コリントの教会は賜物の豊かな教会だった。知識のある優秀な者が多い都市であった。一方で、信仰が世俗化していたという問題があったことも否めない。そのような状況にある教会に対しても、パウロは感謝を伝えている。その感謝の理由は、神から来るものだった。4節にあるように、「神の恵みのゆえに」彼らのことを感謝していたのだ。私たちも、その人のゆえにではなく、神の恵みのゆえに、その人を感謝する者になりたい!人間的には感謝しにくい時であっても、神の恵みを見る時に感謝し得るのだから、キリスト者は不思議である。様々な知識やことばの巧みさが、コリント教会の課題になっていたとしても、本来それ自体は主からのすばらしい賜物である。だから、パウロは主を見て喜んでいた。そして、彼らの存在を感謝しつつ、彼らの間違いを正そうとする愛がそこにあった。問題だけを責めてもほとんどの場合良くはならない。存在を心から感謝する愛から始まり、彼らの幸いを心から願う愛に満たされていることが必要不可欠である。誰かの問題を指摘するとき、そこに愛はあるだろうか。その人の幸いを願う愛はあるだろうか。
2日(火)Ⅰコリント1章10-12節
コリントの兄弟たちの間に「争いがある」と、パウロはクロエの家の人々から聞かされていた(11)。彼らはパウロのつく、アポロにつく、ケファにつく、キリストにつく・・・と、割れていたようだ(12)。キリストと、その弟子である彼らを同列扱う時点で、何もわかっていないし、非常に人間的な発想になっているとわかる。だが、人間がとても陥りやすい罠ではないだろうか。強い人、有能な人、守ってくれそうな人、人気な人、そういうリーダーのもとにいることで、自分もそのような者になれた気になったり、その恩恵を受けられると思ってすり寄ってしまう。そのような面はないだろうか。これをしてしまうので、しばしば私たちは、キリスト者でありながら、互いに足を引っ張り合ってしまうのではないだろうか?私たちの真の一致は一つしかない。全員がキリスト派になることだ。全員がキリストのことばに従い、キリストだけに栄光を記することではないか!
3日(水)Ⅰコリント1章13-17節
○○先生の教会という言い方をしばしば耳にする。深い意味はないのかも知れない。だが、やはり「キリストの教会」であることをいつも大切にしたい。13節では「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と問われている。また、パウロの名によるバプテスマでもないのだ。むしろ、パウロはわずか数人にしかバプテスマを授けていないことを感謝していると敢えて言っている。パウロを通して救われたとしても、「パウロの名によってバプテスマを受けた」と言えないことを感謝しているのだ。パウロの願いは、キリストの名が広められることだ。自分の名ではない。私たちも気をつけよう。つい自分の名を宣伝したくなるのだが、キリストの御名だけが広がり、あがめられるように!
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