東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2月 2019

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2019/02/24

多様性を喜び、協力してともに成長する

 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
 (エペソ4:16)  

 人は自分と異質な存在を受け入れることが難しく、しばしば正反対の人とは対立したり、排除したりしがちです。しかし、神は人をそのような多様性のある存在として造られたのです。人間のからだも異なる多様な器官の協力、連携で成り立っています。ボールひとつ投げる動作でさえ、体のあらゆる部位が一連の動作に協力し、同じ目的に向かって動き、その時にまっすぐに質の高いボールを投げることができます。キリストの教会は異なる賜物を与えられた者たちの個性豊かな集まりです。違うことを嘆いたり、否定したりするのではなく、その多様性こそが神が備えられた豊かさであることをともに喜び、感謝しましょう。そして、それぞれが他人任せではなく、自分に与えられた使命に忠実に歩む時に、成長して愛のうちに建てられるのがキリストのからだなのです。多様性を楽しみ、異なるからこそ助け合える関係を感謝し、愛のうちに協力していくこと。そうして、キリストの教会が建て上がっていくことが神のみこころなのです。

(2019年2月24日 週報掲載)

2019/02/17

御霊による一致とは?

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2-3)

 教会は背景、性別、世代、民族の異なる者たちが集まる場です。考え方も価値観も違う者たちが集められています。一方会社組織は同じ目的、同じ利益に賛同する者が入社しますし、サークルや部活動なども同じ趣味やスポーツという共通点で集まっています。そう考えると教会ほど多様性のある集まりは他にはなく、それでいて「一致」を目指すということは、不可能に限りなく近いと言わざるを得ません。では、聖書は不可能なことを指示しているということなのでしょうか。そうではありません。人の力では不可能だからこそ、神の力(御霊の力)によって一致するようにと教えているのです。それは、考えが同じになることではなく、意見が一つになることではなく、あり得ないほど異なる者たちが、ただキリストの御名があがめられるために、神の栄光が現れるために、自身の握っているものさえ後にして、喜んでささげ合う時に、不思議な一致をもたらしていくということです。細かな枝葉末節のことに終始する議論は一致を妨げ、大切なキリストを第一としていくときに一致が生まれるのです。

(2019年2月17日 週報掲載)

2019/02/10

償いの意義

人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。 (出エジ22:5)  

 「償い(つぐない)」とは、何のためにあるのでしょうか。一つは、ある人の行為によって、物理的、精神的ダメージを受けた人が、その受けた損害を取り戻すためにあると言えます。神はこうして互いに安心して過ごせるように教えておられます。二つ目として、罪や迷惑行為を行った本人が、神の前に悔い改めるだけでなく、償ってやり直していくため、相手との関係を回復するために重要なのです。本人が自分で責任を取り、痛みを通って償いをすることに意味があります。自分がなした行為について、結果を刈り取る経験をしなければ、人は成長できず過ちを繰り返してしまうからです。ここでは「最良の物」で償うとあり、より良いもので返すことを主が教えています。人間同士の関係をも正しく築けるようにとの神のご配慮がここにあります。これらの事から、本来人が神に与えたダメージからすれば、大きな償いが必要だとも気づきます。神に償い切れない私たちのために、キリストのいのちが注がれたことに心より感謝します。

(2019年2月10日 週報掲載)

2019/02/03

いのちにはいのちを

しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。(出エジ21:23-25)  

 この教えは有名で「目には目を、歯に歯を」と略して語られることがあります。ただ、その意味を誤解されていることが多いように思います。ハムラビ法典にも似た教えがありますが、全体の文脈、本質ともに異なっており一緒にすることはできません。さて、この教えにはどのような神の意図があるのでしょうか。第一に、失われたものの尊さは、同じものを失って初めてわかるという事です。償いは同じ犠牲でと教えることで人命、身体の大切さを教える規定なのです。第二に、倍返しの復讐をさせず、正式な裁判にて刑罰の重さを制限する教え(上限を設定する教え)でありました。それを超えて刑罰を与えてはならず、公平性を保つ意味があったのです。こうした考え方が現代の法の土台にもあります。あらかじめ定められていない刑を執行してはならないという「罪刑法定主義」という刑法の基本原則に影響を与えていると言えるでしょう。神様の公平性、復讐を良しとしないお考え、傷つけられた者への思いやり、それらすべてが配慮されています。

(2019年2月3日 週報掲載)

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